第33話 最初の客
その老人が店に入ってきたとき、私は最初、ただの常連客なのだと思った。
午後の光が少し傾きはじめたころだった。
店の中には客が少なく、棚の瓶も、窓から差し込むやわらかな光の中で静かに並んでいた。
私はいつもの席でコーヒーを飲んでいて、愛美は今日はまだ来ていなかった。
扉の鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主がいつもの声で言う。
入ってきたのは、背の少し曲がった老人だった。
年齢は七十を過ぎているように見える。
灰色の上着を着て、手には古びた帽子を持っていた。
歩く速度はゆっくりだったが、足取りに迷いはなかった。
初めて来た人のような視線ではなく、そこに何があるかを知っている人の目で、店の中をひととおり見渡している。
店主は老人の顔を見ると、ほんのわずかに目元をやわらげた。
「お久しぶりです」
その言い方で、私はこの人がただの客ではないのだとわかった。
「しばらく来ていませんでしたからね」
老人はそう言って、小さく笑った。
声はかすれていたが、弱々しい感じはしない。
長い時間をそのまま声にしたような響きがあった。
「お変わりありませんか」
「変わるほどのことも、もうあまりありませんよ」
老人はそう言いながら、カウンターの端の席に腰を下ろした。
店主は何も聞かずにコーヒーの支度を始める。
注文を確かめる必要もないのだろうと思った。
私はカップを持ったまま、さりげなく二人の様子を見ていた。
老人は店の中を見回し、棚の瓶を眺め、それから小さく息をついた。
「ずいぶん、きれいになりましたね」
店主は湯を注ぎながら答える。
「そうでしょうか」
「ええ。前はもっと、何というか……」
老人は言葉を探すように少し笑った。
「むき出しでした」
私はその表現に少し驚いた。
この店を見て「むき出し」という言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
今のこの店は静かで、整っていて、どこか完成された場所に見える。
けれど、この老人の知っている店は違ったのかもしれない。
店主はコーヒーをカップに注ぎ、老人の前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
老人はカップを手に取り、香りを確かめるように少しだけ目を細めた。
「懐かしいですね」
「味は変わっていないと思います」
「そういうことじゃないんですよ」
老人は笑う。
店主も、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
そのやりとりを見ていると、二人のあいだには、ただの店と客以上の時間があるのだとわかった。
長く会っていなかったとしても、途切れていないものがある。
そういう空気だった。
私はなるべく自然な調子で尋ねた。
「昔から来られているんですか」
老人は私のほうを見た。
初めてそこで、私の存在をきちんと認識したような目だった。
「ええ、まあ」
それから、少しだけ店主のほうを見る。
「最初のころを知っているくらいには」
私は思わず聞き返した。
「最初のころ?」
老人はうなずく。
「この店が、今みたいになる前ですよ」
私は棚のほうへ目を向けた。
今みたいになる前。
その言葉だけで、店の中の見え方が少し変わる気がした。
「最初から、こういう店だったわけじゃないんですか」
老人は小さく笑った。
「あの頃は、まだ棚なんてなかった」
その一言で、店の空気がほんの少しだけ変わった気がした。
私は思わず店主を見る。
店主は何も言わない。
否定もしないし、話を止める様子もない。
ただ、カウンターの内側で静かに布をたたんでいる。
「棚が、なかったんですか」
「ええ」
老人はコーヒーをひと口飲んだ。
「今みたいに、きれいに瓶が並んでいる店じゃなかった。もっと狭くて、もっと何もなくて……」
そこで少し考えるように目を細める。
「今よりずっと、始まったばかりの場所でした」
始まったばかりの場所。
その言い方が、妙に耳に残った。
店というより、何かがようやく形になりはじめた場所、という響きがあった。
「じゃあ、店主さんが少しずつ今の形にしたんですね」
私が言うと、老人は「そうですね」とうなずいた。
「最初は、こんなふうに人を落ち着かせる場所じゃなかったですよ」
私は少し意外に思った。
「そうなんですか」
「ええ。もっと……」
老人はそこで言葉を止めた。
何かを言いかけて、やめたのがわかった。
その視線が一瞬だけ店主へ向く。
店主は相変わらず穏やかな顔をしていたが、老人はそれ以上を言わなかった。
「今みたいな顔をする人でもなかった」
ぽつりと、老人が言う。
私は息を止めるような気持ちでその言葉を聞いた。
今みたいな顔。
それはつまり、今の店主とは違う店主を、この人は知っているということだった。
私は思わず店主を見た。
けれど店主は、困ったようにも、否定したそうにも見えなかった。
ただ、少しだけ目を伏せて、カウンターの上のカップを整えている。
「失礼」
老人は小さく笑った。
「余計なことを言いました」
「いいえ」
店主は静かに答えた。
「事実ですから」
その返事は短かった。
短いのに、思っていたより重かった。
私はその言葉の先を想像しようとした。
今よりずっと若かったのかもしれない。
感情を隠さない人だったのかもしれない。
あるいは、今のように静かでいられない理由があったのかもしれない。
けれど、どれも想像でしかない。
わかるのは、今ここにいる店主が、最初からこの静けさを持っていたわけではないということだけだった。
老人はしばらく黙ってコーヒーを飲んでいた。
その沈黙は気まずくなく、むしろ長い時間を知っている人だけが持てる静けさのように思えた。
やがて老人は、棚の奥のほうへ何気なく目をやった。
私はその視線を追いかけそうになって、やめた。
木箱のことが頭をよぎったが、老人がそれに気づいているのかどうかはわからなかった。
「長く続きましたね」
老人が言う。
店主は少しだけ笑った。
「そうですね」
「最初は、こんなに続くとは思いませんでしたよ」
「私もです」
そのやりとりの中に、説明されない何かがあった。
続いた、という言葉の中には、ただ営業年数が長いという以上の意味が含まれている気がした。
続ける理由があった。
やめられない理由も、たぶんあった。
老人はカップを置いた。
「でも、よかった」
「何がですか」
「残ったことですよ」
店主は何も答えなかった。
私はその「残った」という言葉に、なぜか強く引っかかった。
店が残ったのか。
店主が残ったのか。
それとも、ここに置かれている何かが残ったのか。
老人はそれ以上説明しなかった。
ただ、言うべきことはもう言ったという顔で、静かに席を立つ。
「そろそろ行きます」
「ありがとうございました」
店主が言う。
老人は会計を済ませると、扉の前で一度だけ振り返った。
「また来ますよ」
「お待ちしています」
老人は小さくうなずき、店を出ていった。
鈴の音が鳴って、静けさが戻る。
私はしばらく、その扉を見ていた。
最初のころを知っている人。
棚のない店を知っている人。
今とは違う顔をしていた店主を知っている人。
その存在だけで、店主の過去は急に現実味を帯びた。
木箱や写真だけではなく、この店そのものにも、始まりの時間がある。
そして、その始まりを知っている人が、今もどこかにいる。
「意外でしたか」
店主の声に、私は顔を上げた。
「少し」
「何が」
私は少し迷ってから答えた。
「この店にも、今とは違う時期があったんだなって」
店主は小さくうなずいた。
「ありました」
それだけだった。
けれど、その短い言葉の中に、長い時間が折りたたまれているように思えた。
私はそれ以上聞かなかった。
聞けば、もう少し何かが見えるかもしれない。
けれど今日は、見えないまま受け取るほうがいい気がした。
棚に並ぶ瓶を見る。
整えられた光景の奥に、まだ棚すらなかったころのこの店を想像する。
何もない場所から始まったのかもしれない。
あるいは、何かひとつだけを抱えたまま始まったのかもしれない。
そのどちらにしても、今ここにある静けさは、最初から与えられていたものではないのだろう。
作られたものだ。
残されたものだ。
そして、たぶん守られてきたものだ。
私は冷めかけたコーヒーを飲み干した。
店主はいつものように穏やかな顔で、次のカップを拭いている。
けれどその姿は、昨日までより少しだけ、遠い時間の上に立っているように見えた。




