第34話 この店が始まった日
老人が来た日のことが、なぜか頭に残っていた。
最初のころを知っている人。
棚のない店を知っている人。
今とは違う顔をしていた店主を知っている人。
あの人が帰ったあとも、店の中はいつもと同じように静かだった。
棚に並ぶ瓶も、カウンターの木目も、窓から差し込む光も変わらない。
けれど私の中では、何かが少しだけずれていた。
この店にも始まりがあった。
それは当たり前のことのはずなのに、私はどこかで、この店が最初からこういう場所として存在していたように思っていたのかもしれない。
店主もまた、最初から今の店主だったような気がしていた。
でも違う。
始まりがあった。
変わった時間があった。
今ここにある静けさは、最初から完成していたものではない。
そのことが、思っていたより深く胸に残っていた。
数日後、私はまた店を訪れた。
午後の遅い時間だった。
空は薄く曇っていて、店の中の光もやわらかい。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主の声がする。
今日は愛美の姿はなかった。
客もいない。
店の中には、棚の瓶と、コーヒーの香りと、店主だけがいた。
私は少しだけほっとした。
誰かがいたら聞けなかったかもしれないことを、今日は聞ける気がした。
いつもの席に座る。
「いつものものでよろしいですか」
「はい」
店主は静かにうなずいて、コーヒーを淹れ始めた。
湯が落ちる音を聞きながら、私は何度か言葉を飲み込んだ。
聞きたいことははっきりしている。
けれど、それを口にしていいのかはわからない。
この店では、聞けることと、聞いてはいけないことの境目が、いつも少し曖昧だった。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はカップに手を添えた。
温かい。
その温度を確かめるように少しだけ黙ってから、思い切って口を開いた。
「この店は、いつからあるんですか」
店主はすぐには答えなかった。
驚いたような顔もしない。
困ったような顔もしない。
ただ、私の言葉をそのまま受け取って、少しだけ考えるように目を伏せた。
私は自分の問いが、思っていたより重かったことに気づいた。
ただ開店日を聞いているわけではない。
この店がどうしてここにあるのか、その始まりに触れようとしている。
店主はカウンターの上に置いた布を静かにたたんだ。
それから、穏やかな声で言った。
「ある人との約束からです」
私は思わず顔を上げた。
予想していなかったわけではない。
けれど、実際にそう言われると、その言葉は思っていたよりずっと重かった。
「約束……」
店主はうなずく。
「はい」
それだけだった。
私は続きを待った。
誰との約束なのか。
どんな約束だったのか。
なぜそれが店になるのか。
聞きたいことはいくつも浮かんだ。
けれど、店主はそれ以上を急いで話そうとはしなかった。
私は慎重に言葉を選んだ。
「その約束が、この店を始める理由になったんですか」
「そうです」
「その人は……」
そこまで言って、私は少し迷った。
何を聞こうとしているのか、自分でもわかっていた。
木箱の写真の人なのか。
店主が売れないと言った記憶に関わる人なのか。
この店の始まりを知る鍵なのか。
店主は私の迷いを見て取ったようだった。
「誰か、ですか」
私は小さくうなずいた。
「はい」
店主は少しだけ目を細めた。
懐かしむようにも、遠くを見るようにも見える表情だった。
「大切な人です」
その答えは、はっきりしているようで、何も明かしていなかった。
家族かもしれない。
恋人かもしれない。
師匠かもしれない。
以前、愛美と話した推測が頭をよぎる。
けれど今の一言だけでは、やはり何も決められない。
ただ、その人が店主にとって、今もなお「大切な人」であることだけはわかった。
過去形ではなく、今の言葉として。
「その約束って」
私はゆっくり言った。
「守り続けているんですか」
店主は少しだけ考えてから答えた。
「守れているかどうかは、わかりません」
私は意外に思って店主を見る。
「わからないんですか」
「約束というのは、守ったと言い切れるものばかりではありません」
静かな声だった。
けれど、その言葉の奥には、簡単には触れられないものがある気がした。
「続けているだけかもしれません」
私はその言葉を胸の中で繰り返した。
続けているだけ。
それは諦めにも聞こえないし、誇りにも聞こえない。
ただ、やめていないという事実だけを言葉にしたような響きだった。
私はカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。
少し冷めはじめていた。
「この店は」
私は店の中を見回した。
「約束の続き、なんですね」
店主は否定しなかった。
「そうかもしれません」
その言い方は、珍しく少し曖昧だった。
けれど曖昧だからこそ、本当のことに近い気もした。
この店は約束そのものではない。
約束を守った証明でもない。
ただ、その続きを引き受けて、今もここにある場所なのだろう。
私は棚の奥を見ないようにしながら、木箱のことを思った。
あの木箱もまた、その約束と関係しているのだろうか。
あの古びた木箱には、きっと記憶そのものではなく、
何かを残すためのものがしまわれている。
そんな気がした。
「木箱も」
気づけば、私は口にしていた。
店主は何も言わず、こちらを見る。
「あの木箱も、その約束に関係しているんですか」
店主はすぐには答えなかった。
店の中が、少しだけ静かになる。
もともと静かな場所なのに、今はその静けさに輪郭があるように感じた。
私は聞きすぎたかもしれないと思った。
けれど、店主は視線を逸らさなかった。
「関係しています」
短い答えだった。
それだけで十分だった。
私はそれ以上を聞けなかった。
誰との約束なのか。
何を返せなかったのか。
なぜ売れないのか。
なぜ木箱にしまってあるのか。
どれもまだ、今ここで言葉にされるべきではない気がした。
「そうですか」
私がそう言うと、店主は小さくうなずいた。
それから、少しだけ間を置いて言った。
「店というのは、不思議なものです」
私は顔を上げる。
「不思議、ですか」
「はい。残したいもののために始めることもあれば、失くさないために続けることもある」
私はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。
残したいもの。
失くさないために続けること。
それは商売の話には聞こえなかった。
もっと個人的で、もっと静かな執着の話に聞こえた。
「この店は、どっちなんですか」
私が尋ねると、店主はほんの少しだけ笑った。
「両方かもしれません」
その笑みは、いつもの穏やかなものと同じようでいて、少しだけ違って見えた。
遠い時間を知っている人の顔だった。
私はそれ以上、何も言えなかった。
聞けば、もう少し何かが見えるかもしれない。
けれど今日は、ここまででいい気がした。
約束があったこと。
その約束からこの店が始まったこと。
木箱もまた、その約束につながっていること。
それだけで、十分に重かった。
しばらく、私たちは黙っていた。
店の外を、誰かが通り過ぎる気配がする。
車の音が遠くで鳴る。
棚の瓶はいつもと同じように並んでいるのに、今日はそのひとつひとつが、長い時間の上に置かれているように見えた。
この店は、ただ記憶を査定する場所ではないのかもしれない。
誰かとの約束から始まり、
失くしたくないもののために続き、
売ることのできる記憶と、売れない記憶のあいだに立ち続けている場所。
そんなふうに思うと、店の静けさの意味が、昨日までとは少し違って感じられた。
私はコーヒーを飲み終え、席を立った。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店主が言う。
扉の前で、私は一度だけ振り返った。
店主はいつものようにカウンターの向こうに立っている。
けれどその姿は、ただそこにいるのではなく、何かを続けている人の姿に見えた。
扉を開ける。
鈴の音が鳴る。
外へ出ると、曇っていた空の切れ間から、わずかに光が差していた。
この店が始まった日を、私は知らない。
その約束の中身も、まだ知らない。
けれど、始まりがあったということだけは、もう確かだった。
そしてたぶん、その始まりは、まだ終わっていない。




