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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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第35話 入札される記憶

 あの紙は、まだ捨てられずにいた。


 四十万二千円。


 透花の記憶に付いた金額が書かれた査定票は、折り目のついたまま鞄の内ポケットに入っている。

 何度か処分しようと思った。

 もう必要のない紙かもしれないとも思った。

 けれど結局、私はそれを捨てられなかった。


 高いのか安いのか、今でもわからない。


 ただ、あのときの私は、それを「査定額」だと受け取っていた。

 店主が記憶を見て、値段を決めたのだと。

 そこにどんな基準があるのかはわからなくても、そういうものなのだと思っていた。


 けれど最近になって、その数字の意味が少し気になり始めていた。


 どうして、四十万二千円だったのだろう。


 四十万でもなく、四十一万でもない。

 あまりに半端で、妙に具体的な数字だった。


 その理由を、私はまだ知らない。


 午後の遅い時間、店を訪れると、客は誰もいなかった。

 窓の外は薄曇りで、店の中の光もやわらかい。

 棚に並ぶ瓶は静かに光を受けていて、カウンターの向こうでは店主がカップを拭いていた。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


 私はいつもの席に座った。


「いつものものでよろしいですか」


「はい」


 店主はうなずき、コーヒーを淹れ始める。

 湯が落ちる音を聞きながら、私は鞄の中の紙の感触を思い出していた。


 聞いてみようか。


 そう思ってから、少し迷った。

 この店では、知ってしまわないほうがいいこともある気がする。

 けれど、知らないままでいるには、あの数字は少しだけ具体的すぎた。


 コーヒーが置かれる。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 私はカップに手を添え、ひと口飲んでから口を開いた。


「査定額って、どうやって決まるんですか」


 店主はすぐには答えなかった。


 驚いた様子はない。

 ただ、私の問いを静かに受け止めて、少しだけ考えるように目を伏せた。


 それから、穏やかな声で言った。


「査定は、記憶を出品するための手続きです」


 私は意味がわからず、首をかしげた。


「出品?」


「はい」


 店主は静かに続ける。


「査定が終わると、その記憶は一定期間だけ公開されます」


「公開……」


「公開されるのは記憶そのものではありません」


 店主はそう言って、棚の瓶のほうへ一度だけ視線を向けた。


「名前も持ち主も伏せられたまま、その記憶の輪郭だけが示されます」


「輪郭」


「重さや、性質や、失われ方のようなものです」


 私は黙って聞いていた。


 記憶の輪郭。

 重さ。

 性質。

 失われ方。


 それがどういう形で示されるのか、私には想像がつかなかった。

 けれど、少なくとも、私の透花との記憶がそのまま誰かに覗かれていたわけではないらしいことに、少しだけ安堵した。


「その間に、欲しいと思う者が入札します」


 私は息をのんだ。


 店主はいつもと変わらない声で続ける。


「あなたにお伝えした金額は、査定の結果として出たものではあります」


 少し間を置く。


「ですが、同時に、あの時点での最高入札額でもあります」


 私は店主を見たまま、しばらく何も言えなかった。


 最高入札額。


 その言葉が、店の静けさの中でゆっくり沈んでいく。


「入札……されていたんですか」


「はい」


「私の記憶が」


「そうです」


 私は視線を落とした。


 四十万二千円。


 昨日まで、それは店主が決めた値段だと思っていた。

 記憶の価値を測った結果としての数字だと。

 けれど今、その意味はまるで違うものになってしまった。


 誰かが、本当にその額を払おうとしていた。


 私の透花との記憶に。


 会ったこともない、名前も知らない誰かが。


「どうして」


 私は自分でも少しかすれた声で言った。


「どうして、欲しいと思うんですか」


 店主は少しだけ目を伏せた。


「理由は様々です」


 それから、静かに続ける。


「苦しみを知りたい人もいます」


「幸せを知りたい人もいます」


「自分では経験できなかった人生を求める人もいます」


 私はその言葉を聞きながら、透花のことを思い出していた。


 笑った顔。

 怒った顔。

 駅までの帰り道。

 どうでもいい話をしていた時間。

 最後に交わした言葉。


 それらが、誰かにとって欲しいものになる。


 そのことが、うまく理解できない。

 けれど理解できないままでも、胸の奥に重く落ちてくるものはあった。


「買った人は」


 私はゆっくり尋ねた。


「その記憶を、どうするんですか」


 店主は私を見た。


「生きます」


 私は思わず聞き返した。


「……生きる?」


「はい」


 店主の声は穏やかだった。


「その人の人生になります」


 私は言葉を失った。


 眺めるのでもない。

 保存するのでもない。

 借りるのでもない。


 人生になる。


 それは、思っていたよりずっと深いことだった。

 だから値段が付くのだろうか。

 だから落札されるのだろうか。

 だから、一度渡れば戻らないのだろうか。


 私はようやく、この店の「売る」という言葉の重さを少しだけ理解した気がした。


「じゃあ」


 私は慎重に言った。


「まだ売っていないなら……」


 店主は小さくうなずく。


「まだ誰のものでもありません」


 私は少しだけ息をついた。

 けれど店主は、そのあと静かに続けた。


「入札は残っていますが」


 その言葉に、胸の奥がまた重くなる。


 まだ誰のものでもない。

 でも、欲しいと思っている誰かはいる。

 私が手放すと決めれば、その記憶は本当に誰かの人生になる。


 私は鞄の中の査定票を思い出した。

 折り目のついた紙。

 そこに書かれた四十万二千円という数字。


 昨日まで、それは査定額だった。

 けれど今日からは違う。


 誰かが本当に払おうとした金額。

 私の知らない誰かが、透花との記憶に付けた値段。


 同じ数字のはずなのに、重みがまるで違って見えた。


「入札されても」


 私はゆっくりと言った。


「売らないことは、できますか」


 店主は静かに微笑んだ。


「もちろんです」


 少し間を置く。


「最後に決めるのは、持ち主ですから」


 私はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。


 最後に決めるのは、持ち主。


 値段が付いても。

 欲しがる誰かがいても。

 それでも、渡すかどうかは自分が決める。


 その当たり前のことが、今はひどく大切なことのように思えた。


 私はテーブルの上に視線を落とした。


 数字ではなく、その向こうにいる見知らぬ誰かを想像する。

 苦しみを知りたい人。

 幸せを知りたい人。

 自分では生きられなかった人生を求める人。


 その誰かにとって、透花との記憶は価値のあるものなのかもしれない。

 けれど、そのことと、私がそれを手放せるかどうかは、きっと別の話なのだ。


 記憶は、値段が付いたから売るものではない。


 ふいに、そんな考えが胸の中に落ちてきた。


 まだ答えにはなっていない。

 けれど少なくとも、前より少しだけはっきりしたことがあった。


 私はただ、楽になるために売ろうとしていたわけではない。

 そして今はもう、値段だけで決められるものでもなくなっていた。


 店の外では、風が少しだけ強くなっていた。

 窓の向こうで、街路樹の葉が揺れている。


 店主はいつものように、次のカップを静かに拭いていた。


 この店は、記憶を査定する場所であると同時に、

 記憶が誰かに求められる場所でもあるのだろう。


 私は冷めかけたコーヒーを飲み干した。


 四十万二千円。


 その数字はもう、ただの査定額ではない。


 誰かが欲しいと思った記憶の値段であり、

 それでもまだ、私の手の中に残されているものの重さだった。


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