第36話 誰が欲しがるのか
帰ってからも、私は何度もあの紙を見ていた。
四十万二千円。
透花の記憶に付いた金額。
折り目のついた査定票の上に、変わらない数字で書かれている。
昨日まで、それはただの査定額だった。
店主が見た記憶の重さに、何らかの基準で付けられた値段。
そう思っていた。
けれど今は違う。
あれは、その時点での最高入札額だった。
誰かが、本当にその額を払ってでも欲しいと思った記憶。
そう考えると、数字そのものよりも、別のことが気になって仕方がなかった。
誰が、欲しいと思ったのだろう。
透花との記憶を。
私以外の誰かが。
そのことだけが、妙に現実感を持って胸の中に残っていた。
会ったこともない誰か。
名前も知らない誰か。
どこで生きているのかもわからない誰か。
その誰かが、私の持っているものを必要としている。
必要。
前回、店主はそうは言わなかった。
けれど、ただ欲しいというだけではない気がした。
四十万二千円という具体的な数字の向こうには、もっと切実なものがあるのではないか。
そんな気がしていた。
数日後、私はまた店を訪れた。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主の声に続いて、もうひとつ、聞き慣れた声がした。
「あ、こんにちは」
愛美だった。
彼女は窓際の席に座っていて、湯気の立つカップを両手で包むように持っていた。
今日は淡い色のニットを着ていて、窓から入る曇り空の光がやわらかく肩に落ちていた。
「こんにちは」
私が言うと、愛美は少しだけ笑った。
「最近、よく会いますね」
「そうですね」
私は曖昧に笑ってから、いつもの席に座った。
「いつものものでよろしいですか」
店主が尋ねる。
「はい」
店主は静かにうなずき、コーヒーを淹れ始めた。
湯が落ちる音が、店の静けさの中に細く響く。
私はその音を聞きながら、前回から気になっていたことを、今日は聞こうと決めていた。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はカップに手を添え、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「入札する人って、どんな人なんですか」
店主はすぐには答えなかった。
愛美も、カップを持ったままこちらを見る。
店主は少し考えるように目を伏せてから、静かな声で言った。
「こちらにもわかりません」
「わからない?」
「姿を見ることもありません」
私は眉をひそめた。
「見えない相手なのに、いるとわかるんですか」
店主は小さくうなずいた。
「存在します」
それだけは、はっきりした声だった。
「それだけは確かです」
私は黙った。
見えない。
姿もわからない。
名前も知らない。
それでも存在する。
この店では、そういうものが多すぎる気がした。
記憶もそうだ。
値段もそうだ。
そして、それを欲しがる誰かも。
そのとき、愛美が静かに口を開いた。
「私も以前、同じことを聞きました」
私は愛美を見る。
「誰なんですかって」
「……なんて答えられたんですか」
愛美は少しだけ視線を落とし、それから言った。
「必要としている人です、って」
「必要……」
その言葉を、私は小さく繰り返した。
店主は私のほうを見て、静かに続けた。
「人は、自分にない人生を欲しがることがあります」
私は黙って聞いていた。
「愛された記憶」
「失った記憶」
「許せなかった記憶」
「許された記憶」
店主の声は穏やかだった。
けれど、そのひとつひとつの言葉は、静かに胸の奥へ落ちてくる。
「その人に必要なものほど、入札されます」
私はしばらく何も言えなかった。
必要なもの。
価値があるからではなく。
珍しいからでもなく。
高く売れそうだからでもなく。
「価値があるからではなく……」
気づけば、私はそう口にしていた。
店主は小さくうなずく。
「必要だからです」
その一言で、何かが少しだけはっきりした気がした。
この店で値段が付くのは、優れているからでも、美しいからでもないのかもしれない。
誰かの欠けているものに触れるから。
誰かの空白に、ぴたりとはまるから。
だから、欲しいと思われる。
私はカップを持ち上げたが、飲む前にまたテーブルへ戻した。
「じゃあ……」
自分の声が少しだけ低くなる。
「透花との記憶を欲しがる人は、どんな人なんでしょう」
愛美も、店主も、すぐには答えなかった。
店の外を車が一台、ゆっくり通り過ぎていく音がした。
窓の向こうの空は薄く曇っていて、午後の光は白くやわらかい。
やがて店主が、ほんの少しだけ笑った。
「それは私にもわかりません」
私は目を伏せる。
そうだろうと思った。
わかるはずがない。
それでも聞かずにはいられなかった。
店主は静かに続けた。
「ですが」
少し間があった。
「あなたには必要だった記憶です」
私は言葉を失った。
必要だった。
その言い方は、過去形にも、現在形にも聞こえた。
透花との記憶は、私にとって大切だった。
それは間違いない。
苦しかったとしても、失ったあとで立ち止まってしまったとしても、それでも確かに、私の人生に必要だった時間だ。
だからこそ、手放そうとしたのかもしれない。
だからこそ、まだ決めきれないのかもしれない。
私はようやくコーヒーをひと口飲んだ。
少し冷めていた。
愛美は何も言わなかった。
ただ、自分のカップを見つめながら、どこか遠いことを思い出しているような顔をしていた。
この店に来る人は、みんな一度は考えるのかもしれない。
誰が欲しがるのか。
なぜ欲しがるのか。
そして、自分はそれを渡せるのか。
答えは簡単には出ない。
けれど、前より少しだけわかったことがある。
記憶に値段が付くのは、価値があるからではない。
必要としている誰かがいるからだ。
そのことは、少し救いのようでもあり、少し怖くもあった。
もし、この記憶が誰かを救うものだったら。
ふいにそんな考えが浮かび、私は自分で少し驚いた。
透花との記憶が。
私には重くて、痛くて、まだうまく抱えきれないその時間が。
誰かにとっては、生きるために必要なものかもしれない。
そう思うと、胸の奥が静かに揺れた。
それは優しさなのか、罪悪感なのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、その考えは少し怖かった。
帰り際、私は会計を済ませ、扉の前で一度だけ振り返った。
愛美はまだ席に座っていた。
店主はカウンターの向こうで、いつものように静かに立っている。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店主と愛美の声が重なる。
扉を開けると、鈴の音が鳴った。
外へ出ると、空気は少し冷えていた。
私は鞄の中の査定票を思い出す。
四十万二千円。
昨日までは、ただの数字だった。
けれど今日は違う。
誰かひとりが、
あるいは誰かたちが、
それだけ払ってでも欲しいと思った記憶。
私は歩きながら、透花の名前を心の中でそっと呼んだ。
もし、この記憶が誰かを救うものだったら。
その考えは、まだ答えにはならない。
けれど、もう簡単に打ち消せるものでもなかった。
店の扉の向こうで、また鈴の音が小さく鳴った気がした。




