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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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第37話 締め切られない入札

 査定票の数字は、変わらないままだった。


 四十万二千円。


 けれど、その数字の意味だけが、前とは違って見えていた。


 あれは査定額であると同時に、あの時点での最高入札額でもある。

 そう知ってから、私はときどき鞄の中の紙を取り出しては、ただ眺めるようになっていた。


 今も、入札され続けているのだろうか。


 誰かが値段を上げているのかもしれない。

 逆に、もう誰も興味を失っているのかもしれない。


 四十万二千円という数字は、あの瞬間にだけ付いていたものなのか。

 それとも今も、見えないどこかで動き続けているのか。


 考え始めると、落ち着かなかった。


 数日後、私はまた店を訪れた。


 午後の光は薄く、店の中はいつもより少しだけ静かに感じられた。

 扉を開けると、鈴の音が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 店主の声に続いて、窓際の席から愛美が顔を上げた。


「あ、こんにちは」


「こんにちは」


 最近、この店で愛美に会うことが増えた気がする。

 偶然なのか、それともこの店に来る人間は、似たような時期に似たような場所で立ち止まるのか。

 私にはわからない。


 いつもの席に座ると、店主が尋ねた。


「いつものものでよろしいですか」


「はい」


 店主は静かにうなずき、コーヒーを淹れ始めた。

 湯が落ちる音を聞きながら、私は今日ここへ来た理由を頭の中で確かめる。


 前回、私は入札する人のことを聞いた。

 今日は、その先を知りたかった。


 コーヒーが置かれる。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 私はカップに手を添えたまま、店主を見た。


「オークションって、いつ終わるんですか」


 店主は少しだけ目を伏せた。


 それから、静かな声で言った。


「終わりません」


 私は思わず聞き返した。


「え?」


「持ち主が売ると決めるまで続きます」


 私は店主の顔を見たまま、しばらく言葉が出なかった。


「じゃあ……」


 ようやく声を出す。


「十年前の記憶でも?」


「入札されています」


「何十年でも?」


「ええ」


 私は背中に、かすかな寒気のようなものが走るのを感じた。


 何十年でも。


 それはつまり、記憶が古くなったからといって消えるわけではないということだ。

 時間が経てば自然に閉じるものではない。

 持ち主が決めない限り、見えないどこかで、ずっと値が付いたまま残り続ける。


 その仕組みは、思っていたより静かで、思っていたより執拗だった。


 そのとき、愛美が窓際の席から静かに言った。


「私のも、まだ残っています」


 私は思わずそちらを見た。


「愛美さんのも?」


 愛美は小さくうなずいた。


「売らなかったんですか」


「決められなくて」


「今も?」


「今も」


 その答えはあまりにも静かで、だからこそ本当のことのように聞こえた。


 私は少しだけ息をついた。


 自分だけではないのだと思った。

 この店に来て、記憶に値段が付いて、それでも決められないまま立ち止まっている人が、ほかにもいる。


 愛美はいつも落ち着いて見えた。

 もう何かを乗り越えた人のようにも見えた。

 けれど、その人でさえ、まだ決められない記憶を持っている。


 それは少しだけ救いのようでもあり、少しだけ怖くもあった。


「入札が増えることもあります」


 店主が静かに言った。


 私は視線を戻す。


「減ることもあるんですか」


「必要としなくなれば」


「必要としなくなる……」


「人が変われば、必要な記憶も変わります」


 私はその言葉を胸の中で繰り返した。


 人が変われば、必要な記憶も変わる。


 記憶の値段が変わるのは、記憶そのものが変わるからではない。

 それを欲しがる誰かの人生が変わるからなのだ。


 苦しみが必要だった人が、もうそれを必要としなくなることもある。

 幸せを求めていた人が、別の何かを欲しがるようになることもある。

 許された記憶を欲しがっていた人が、いつか自分で自分を許せるようになることもあるのかもしれない。


 そう考えると、この店の相場は市場ではなく、人の人生そのもののように思えた。


 私はカップを持ち上げ、少し冷めたコーヒーをひと口飲んだ。


「じゃあ」


 私はゆっくり言った。


「ずっと決めなければ、ずっと残るんですね」


「はい」


 店主は穏やかに答える。


「持ち主が決めるまで、売られることはありません」


 その言葉は、安心にも聞こえたし、猶予にも聞こえた。

 同時に、逃げ道のない話にも聞こえた。


 決めない限り終わらない。

 終わらせるのは、自分しかいない。


 私はそのことを、前より少しだけ重く感じていた。


 しばらくして、私は席を立った。


 会計を済ませ、鞄を持つ。

 そのまま帰ろうとして、ふと、ひとつだけ気になっていたことを口にした。


「店主さんの記憶にも、入札があるんですか」


 店主はすぐには答えなかった。


 ほんの数秒だけ、棚の奥へ視線を向ける。


 あの木箱が置かれている場所だった。


 それから店主は、静かにこちらを見て、わずかに笑った。


「あります」


 私は思わず聞いた。


「売るんですか」


 店主の視線は、まだどこか木箱のほうに残っているように見えた。


「……売れません」


 その一言だけだった。


 私は何も言えなかった。


 売らない、ではなく、売れない。


 その違いの意味を、私はまだうまく言葉にできない。

 けれど、その短い返事の中に、この店のいちばん深いところが隠れている気がした。


「ありがとうございました」


 私はそう言って扉へ向かった。


「ありがとうございました」


 店主と愛美の声が、静かに重なる。


 扉を開けると、鈴の音が鳴った。


 外へ出ると、空気は少し冷たかった。

 私は鞄の中の査定票を思い出す。


 四十万二千円。


 その数字は、まだ私の記憶に付いたままなのだろうか。

 今もどこかで、誰かが必要としているのだろうか。


 そして店主の記憶にも、入札がある。


 それでも、売れない。


 私は歩きながら、あの木箱のことを思った。


 あの中にはきっと、ただ古いものがしまわれているわけではない。

 値段が付いても、渡せないもの。

 必要とされても、手放してはいけないもの。


 そんなものが、この店にはまだ残されている。


 そう思うと、店の扉の向こうにある静けさが、昨日までとは少し違って感じられた。


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