第38話 入札を取り消した人
昼休みの終わり、私は机の引き出しを閉めようとして、あの紙に触れた。
四十万二千円。
折り目のついた査定票は、書類の下に紛れるように入れたはずなのに、なぜかすぐ見つかる。
見ないようにしていても、ふとした拍子に目に入る。
まるで、忘れたころにだけ存在を主張するものみたいだった。
私はその数字をしばらく見つめた。
前なら、気になったのは高いか安いかだった。
けれど今は違う。
店主の言葉が、頭から離れない。
必要としなくなれば、入札は減る。
なら、入札を取り消した人は、何を得たのだろう。
欲しかったはずの記憶を、もう欲しいと思わなくなった人。
その人は、何を手に入れて、何を手放したのだろう。
午後の会議の時間が近づいていた。
けれど私は査定票を引き出しに戻しても、しばらく席を立てなかった。
数日後、私はまた店を訪れた。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
店の中には、いつもの静けさがあった。
「いらっしゃいませ」
店主の声に続いて、窓際の席から愛美が顔を上げる。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
最近、この店で愛美に会うことが増えた。
偶然なのかもしれない。
けれど、ここへ来る人間は、同じようなところで立ち止まり、同じような問いを抱えるのかもしれなかった。
私はいつもの席に座った。
「いつものものでよろしいですか」
「はい」
店主は静かにうなずき、コーヒーを淹れ始める。
湯が落ちる音を聞きながら、私は今日ここへ来た理由を思い返していた。
前回、私はオークションが終わらないことを知った。
持ち主が決めるまで、入札は残り続ける。
けれど同時に、必要としなくなれば入札は減るとも聞いた。
その先が、気になっていた。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はカップに手を添えたまま、店主を見た。
「入札って、取り消されることもあるんですよね」
「あります」
店主は静かに答えた。
「どういう人が取り消すんですか」
店主は少しだけ考えるように目を伏せた。
それから、穏やかな声で言った。
「その記憶がなくても、生きられるようになった人です」
私は思わず聞き返した。
「手に入れたからじゃなくて?」
「いいえ」
店主は小さく首を振る。
「必要がなくなったのです」
私は黙った。
必要がなくなった。
その言葉は、どこか静かな救いのように聞こえた。
欲しかったものを手に入れたからではない。
代わりの何かで埋めたからでもない。
ただ、それがなくても生きていけるようになった。
それはきっと、失ったものを忘れたということではない。
欠けたままでも、歩けるようになったということなのだろう。
店主は続けた。
「恋人を失った人もいます」
「親を許せなかった人もいます」
「愛されたことがないまま生きてきた人もいます」
私は静かに聞いていた。
「ですが、時間が経つうちに」
店主の声は変わらず穏やかだった。
「誰かと出会ったり、自分で答えを見つけたりして、現実の人生の中で欠けていたものが埋まることがあります」
「すると、入札は……」
「自然に消えます」
私はカップの中の黒い液面を見つめた。
自然に消える。
それは、諦めるということとも少し違う気がした。
もっと静かで、もっと確かな変化だ。
必要だったものが、必要でなくなる。
それは失うことではなく、前へ進くことなのかもしれない。
そのとき、愛美がぽつりと言った。
「私も一度だけ、取り消しました」
私は顔を上げた。
「入札してたんですか」
「はい」
愛美はカップを見つめたまま、小さくうなずく。
「ある記憶を」
「……でも、やめた」
「もう必要なくなりました」
それだけだった。
何の記憶だったのか、私は聞かなかった。
愛美も、それ以上は話さなかった。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
記憶を買わなくても、前へ進める人がいる。
この店の外で。
現実の時間の中で。
誰かと出会い、自分で答えを見つけて、必要だったものを手放せるようになる人がいる。
私はそのことを、少し眩しいもののように感じた。
同時に、少しだけ遠いもののようにも思えた。
「入札がなくなることは、悪いことではありません」
店主が静かに言った。
私は顔を上げる。
「そうなんですか」
「その人が、自分の人生を歩き始めたということですから」
私はその言葉を、胸の中でゆっくり繰り返した。
自分の人生を歩き始めた。
それはたぶん、過去が消えることではない。
必要だったはずの何かに、もうすがらなくてもよくなることだ。
記憶を借りなくても、買わなくても、自分の足で進けるようになることだ。
私は透花のことを思い出した。
もし誰かが、透花との記憶を必要としているのだとしたら。
その人にも、いつか必要なくなる日が来るのだろうか。
誰かと出会って。
何かを許して。
あるいは、自分の中で答えを見つけて。
そうして、もうこの記憶がなくても生きられるようになる日が。
もしそうなら。
私はふと、肩の力が少し抜けるのを感じた。
急いで売る必要なんて、ないのかもしれない。
今この瞬間、誰かが必要としていたとしても。
その必要は、永遠ではないのかもしれない。
人が変われば、必要な記憶も変わる。
ならば、今すぐ決めなければならない理由も、どこにもない。
私は冷めかけたコーヒーを飲み干した。
会計を済ませ、鞄を持つ。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店主と愛美の声が、静かに重なる。
扉を開けると、鈴の音が鳴った。
外へ出ると、夕方の空気は少しだけやわらかかった。
私は歩きながら、鞄の中の査定票を思い出す。
四十万二千円。
その数字は今日も変わらない。
けれど、前とは違って見えていた。
上がるか下がるか。
売れるか売れないか。
そんなことよりも先に、ひとつだけ思う。
いつか誰かが、この数字を必要としなくなる日もある。
その日が来ることは、きっと悪いことではない。
その人が、自分の人生を歩き始めたということなのだから。
私はゆっくりと歩き出した。
まだ答えは出ていない。
けれど少なくとも、急がなくていいのだと思えた。




