第39話 数字が変わる
店に入った瞬間、いつもと少しだけ空気が違う気がした。
扉の鈴が鳴る。
けれど、その音が消えたあとも、店の中には何か言葉にならない揺れが残っているようだった。
「いらっしゃいませ」
店主はいつも通りの声でそう言った。
けれど、いつもより少しだけ静かだった。
窓際の席には愛美がいた。
けれど今日は、私に気づいてすぐ笑うこともなく、手元の紙を見つめたまま、どこか落ち着かない様子をしていた。
「こんにちは」
私が声をかけると、愛美ははっとしたように顔を上げた。
「あ……こんにちは」
少し遅れて返ってきた声に、私は小さな違和感を覚えた。
私はいつもの席に座る。
店主が尋ねる。
「いつものものでよろしいですか」
「はい」
店主は静かにうなずき、コーヒーを淹れ始めた。
湯が落ちる音が、妙に細く聞こえる。
私は窓際の愛美を見た。
彼女は一枚の紙を指先で押さえたまま、何かを考えているようだった。
「何かあったんですか」
私がそう聞くと、愛美は少し迷うように視線を落とした。
それから、小さく息をついて、その紙をこちらへ向けた。
「……金額が、変わったんです」
私は思わず身を乗り出した。
そこに書かれていた数字は、前に見たものと違っていた。
三十一万八千円。
その下に、細い字で新しい数字が記されている。
二十八万七千円。
私はしばらく、その二つの数字を見比べていた。
「下がることって、あるんですね」
気づけば、そう口にしていた。
愛美は小さくうなずく。
「私も、実際に見るのは初めてです」
そのとき、店主がコーヒーを運んできた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はカップに手を添えたまま、店主を見た。
「入札が取り消されたんですか」
「はい」
店主は静かに答えた。
「誰かが必要なくなった?」
「そういうことになります」
私は愛美の査定票をもう一度見た。
三十一万八千円から、二十八万七千円へ。
たった数字が変わっただけのはずなのに、その意味は前とはまるで違って見えた。
店主は穏やかな声で続けた。
「誰か一人が、自分の人生を歩き始めたのでしょう」
私はその言葉を聞いて、前回の話を思い出していた。
必要だった記憶が、必要でなくなること。
それは失うことではなく、前へ進くことなのだと。
けれど今、その話は抽象的なものではなく、愛美の手の中の紙の上で、はっきりと形になっていた。
数字が下がる。
それは、この店では価値が落ちることではない。
誰かがもう、その記憶にすがらなくても生きていけるようになったということだ。
「残念じゃないですか」
私は愛美に尋ねた。
愛美はすぐには答えなかった。
査定票を見つめたまま、少しだけ考えるように黙る。
それから、ほんの少し笑った。
「少しだけ」
その言い方は正直で、だからこそやわらかかった。
「でも、その人が幸せになったなら、それでいい気もします」
私は愛美を見た。
その横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
自分の記憶の値段が下がることよりも、見知らぬ誰かが前へ進けたことを先に思える人なのだと、そのとき初めて知った気がした。
私は何も言えなかった。
もし自分だったら、同じように思えるだろうか。
鞄の中の査定票を思い出す。
四十万二千円。
変わっていない数字。
けれど、その意味は昨日までとは違っていた。
あの数字は、ただ欲しい人の数ではないのかもしれない。
高く評価された証でもないのかもしれない。
まだ誰かが苦しんでいる証。
まだ誰かが、その記憶を必要としている証。
そんなふうに見え始めていた。
私は少しだけ息をつき、コーヒーをひと口飲んだ。
少し苦かった。
「数字が高い方が、いいわけじゃないんですね」
気づけば、私はそう言っていた。
店主は小さく笑った。
「ええ」
それから、静かに続ける。
「この店では、高く売れることは、必ずしも喜ばしいことではありません」
私は言葉を失った。
高く売れること。
それは普通なら、価値があることの証だ。
喜ばしいことのはずだ。
けれどこの店では違う。
高いということは、それだけ強く必要としている誰かがいるということだ。
それだけ深く欠けている誰かが、まだどこかにいるということだ。
数字は価値ではなく、欠落の深さを映している。
そう思うと、査定票に書かれた四十万二千円が、急に少し重たいものに感じられた。
しばらくして、私は席を立った。
会計を済ませ、鞄を持つ。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店主と愛美の声が重なる。
扉を開けると、鈴の音が鳴った。
外へ出ると、夕方の空気は少しひんやりしていた。
私は歩きながら、鞄の中の査定票を思い出す。
四十万二千円。
数字は変わっていない。
けれど、その数字を見て思うことは、もう前とは違っていた。
上がってほしい、とは思わなかった。
むしろ、初めて思った。
下がってほしい。
誰かがもう、この記憶を必要としなくなる日が来ればいい。
そう思いながら、私はゆっくりと歩いた。
夕暮れの道は静かで、風だけが少しやわらかく吹いていた。




