第40話 入札を断る
その日、店には愛美の姿がなかった。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
いつもの静かな店内に、今日は店主ひとりだけがいた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
私はそう返して、いつもの席に座った。
窓際の席は空いていた。
愛美がいないだけで、店の空気は少し広く感じられる。
けれど、そのぶん静けさが深くなったようでもあった。
「いつものものでよろしいですか」
「はい」
店主は静かにうなずき、コーヒーを淹れ始める。
湯が落ちる音を聞きながら、私は前回のことを思い出していた。
愛美の査定票の数字が下がっていたこと。
それが、誰かが必要としなくなった証だと知ったこと。
そして、数字が高いことは必ずしも喜ばしいことではないのだと、初めて思ったこと。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はカップに手を添えたまま、しばらく黙っていた。
何から話せばいいのかわからなかった。
けれど、今日ここへ来た理由ははっきりしていた。
「この前から、少し考えてたんです」
店主は何も言わず、続きを待っている。
「誰かが救われるなら、売るのも悪くないのかなって」
言葉にしてみると、自分でも少し驚いた。
前なら、そんなふうには考えなかったはずだった。
透花との記憶は、私のものだ。
私の人生の一部だ。
それを手放すことは、どこか裏切りのようにも思えていた。
けれど今は、少し違う。
もし本当に、その記憶を必要としている誰かがいるのなら。
もしそれが、その人を救うことにつながるのなら。
渡すことは、悪いことではないのかもしれない。
そう思い始めていた。
店主は少しだけ考えるように目を伏せた。
それから、静かな声で言った。
「そうとも限りません」
私は思わず顔を上げた。
「え?」
「必要としている人がいることと、お渡ししてよいことは、同じではありません」
私はすぐには意味がわからなかった。
「必要としている人が、いるんですよね」
「います」
店主は穏やかに答える。
「ですが、お渡しできない記憶もあります」
私は眉をひそめた。
「入札されても?」
「断ります」
その一言は、驚くほどはっきりしていた。
私はしばらく何も言えなかった。
断る。
この店では、最高額が付けばそれで決まるわけではない。
持ち主が売ると決めても、それだけでは足りない。
店主には、渡さないと判断する権利がある。
私は初めて、そのことを知った。
「どういう記憶ですか」
店主は少しだけ考えた。
言葉を選ぶような、短い沈黙があった。
「その人の人生を壊す記憶です」
私は意味をうまく飲み込めなかった。
「人生を……壊す?」
「はい」
店主は静かに続けた。
「たとえば、親を憎み続けてきた人がいます」
私は黙って聞いていた。
「その人が、さらに憎み続けるためだけに、同じような記憶を欲しがることがあります」
「同じような記憶……」
「復讐するために」
店主の声は穏やかなままだった。
「誰かを裁くために」
「自分を傷つけ続けるために」
私はカップに触れたまま、指先に少し力が入るのを感じた。
記憶は、足りないものを埋めるために求められるのだと思っていた。
愛された記憶。
許された記憶。
失ったものを抱きしめ直すための記憶。
けれど、そうではない求め方もあるのだ。
傷を癒やすためではなく、傷を深くするために。
前へ進くためではなく、立ち止まり続けるために。
誰かを許すためではなく、憎み続けるために。
同じ記憶でも、求める人によって意味が変わる。
そのことを、私はそのとき初めて本当の意味で理解した気がした。
「逆に」
店主は続ける。
「悲しい記憶でも、前へ進くために必要とする人もいます」
私は小さくうなずいた。
それはもう、少しわかる気がしていた。
必要な記憶がある。
けれど、その必要が人を生かすものなのか、縛るものなのかは、同じではない。
「店主さんには、それが分かるんですか」
私がそう聞くと、店主はわずかに目を伏せた。
「全部ではありません」
その答えは、少しだけ人間らしくて、私はほっとした。
「ですが」
店主は静かに言う。
「渡してはいけないと思うことがあります」
私はその言葉を聞きながら、前に店主が言ったことを思い出していた。
あります。
……売れません。
あのときの、木箱へ向けられた視線。
あの短い沈黙。
私はずっと、あれは売れない記憶なのだと思っていた。
何か特別な理由があって、仕組みの上で売れないのだと。
けれど、もしかしたら違うのかもしれない。
売れないのではなく。
売らないと決めているのかもしれない。
誰かが欲しがっていても。
必要としていても。
それでも渡してはいけないと、店主が判断している記憶なのかもしれない。
私はその考えを口には出さなかった。
けれど、胸の奥に小さく残った。
しばらくして、私は立ち上がった。
会計を済ませ、鞄を持つ。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店主の声は、いつもと同じように静かだった。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
外へ出ると、夕方の空気は少し冷えていた。
私は歩きながら考えていた。
必要としている人がいること。
その人が苦しんでいること。
その人を救えるかもしれないこと。
それでも、渡してはいけない記憶がある。
この店は、ただ売るための場所ではないのだ。
値段を付け、競らせ、渡すだけの場所ではない。
その先にある人生まで見ようとする場所なのだ。
そう思うと、店主の静かな横顔が、昨日までとは少し違って見えた。
扉の向こうでは、もう鈴の音はしていないはずなのに、耳の奥にまだ小さく残っている気がした。
店の中では、店主がひとり、しばらく動かなかった。
やがて静かに視線を上げ、棚の奥を見る。
あの木箱が置かれている場所だった。
店内はしんとしている。
返事をする者は誰もいない。
店主は誰にも聞こえないほど小さな声で、ただ一言だけつぶやいた。
「今日は、お断りしました。」
それきり、何も言わなかった。
木箱だけが、そこにあった。




