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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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41/46

第41話 待つということ

 査定票を鞄に入れたまま、私はしばらく机の前で座っていた。


 返そうと思ったのは、昨夜だった。


 もう何度も見返した紙だった。

 四十万二千円。

 その数字は変わらないまま、けれど見るたびに少しずつ意味を変えていった。


 最初は、ただ高いのか安いのかが気になった。

 次に、それが誰かの入札額だと知った。

 それから、その数字が誰かの欠けたものの重さなのかもしれないと思うようになった。


 そして今は、持っていること自体が少し落ち着かない。


 売ると決めたわけではない。

 売らないと決めたわけでもない。

 ただ、決められないまま持っている。


 その曖昧さが、どこか中途半端なもののように思えていた。


 だから返そうと思った。


 店に返してしまえば、少しは楽になる気がした。

 自分の手元から離してしまえば、答えを先延ばしにしている感じも薄れる気がした。


 けれど本当にそうなのかは、自分でもよくわからなかった。


 数日後、私はまた店を訪れた。


 扉を開けると、鈴の音が鳴る。

 店の中には、いつもの静かな空気が流れていた。


「いらっしゃいませ」


 店主の声に続いて、窓際の席から愛美が軽く会釈した。


「こんにちは」


「こんにちは」


 私はそう返して、いつもの席に座る。

 鞄の中の紙の感触が、今日はいつもよりはっきりしていた。


「いつものものでよろしいですか」


「はい」


 店主は静かにうなずき、コーヒーを淹れ始める。

 湯が落ちる音を聞きながら、私は鞄の口に手をかけた。


 今日ここへ来た理由は、はっきりしている。

 返すためだ。


 コーヒーが置かれる。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


 私は礼を言ってから、鞄の中から査定票を取り出した。

 折り目のついた紙を、テーブルの上にそっと置く。


 店主がそれを見る。


「これを……返そうと思って」


 店主は紙を見たまま、すぐには手を伸ばさなかった。


「お預かりすることはできません」


 私は思わず顔を上げた。


「え?」


「査定票は、持ち主の方が持っていてください」


 私は少し戸惑った。


「でも、決められなくて」


「はい」


 店主は穏やかにうなずく。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 その問いは、査定票のことだけではなかったのかもしれない。

 売るのか、売らないのか。

 決められないまま、どうしていればいいのか。

 私はたぶん、それを聞いていた。


 店主は静かな声で答えた。


「持ち主が持っていてください」


「決めるまで?」


 私がそう聞くと、店主は少しだけ目を細めた。


「決めなくても構いません」


 私は言葉を失った。


 決めなくても構わない。


 その言葉は、思っていたよりずっと深く胸に落ちてきた。


 私はずっと、答えを出さなければならないのだと思っていた。

 売るか、売らないか。

 どちらかを選ばなければならないのだと。


 けれど店主は、そのどちらでもない場所を、当たり前のように示した。


「決めないことも、決断です」


 店主はそう言った。


 私は査定票を見つめた。


 四十万二千円。

 その数字は、何も変わっていない。

 けれど、その紙を持っている自分の意味が、少しだけ変わった気がした。


 決められないのではなく。

 まだ決めないでいる。


 その違いは小さいようでいて、私の中では大きかった。


「急がなくて、いいんですね」


 気づけば、そう口にしていた。


「はい」


 店主は静かに答える。


「急いで決める必要はありません」


 窓際で、愛美が小さくカップを置く音がした。

 私はそちらを見る。


 愛美は私の視線に気づくと、少しだけ笑った。


「待つのも、案外むずかしいですけどね」


 その言い方が、少しだけおかしくて、私は初めて小さく笑った。


「そうですね」


 待つことは、何もしないことではない。

 答えを出さずにいることは、逃げることとも少し違う。

 持ったまま、急がずにいる。

 それはたぶん、思っていたよりずっと意志のいることなのだ。


 私は査定票を手に取った。

 返すつもりで持ってきた紙は、また自分の手の中に戻る。


 けれど今度は、前より少しだけ自然に持てる気がした。


 コーヒーを飲み終え、私は席を立った。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 店主と愛美の声が重なる。


 扉を開けると、鈴の音が鳴った。


 外へ出ると、空は薄く曇っていた。

 私は鞄の中に査定票をしまい、そのまま家へ帰った。


 部屋に入って、上着を脱ぎ、鞄を机の上に置く。

 いつもなら財布に入れるか、引き出しにしまうところだった。


 けれど私は少し考えて、本棚の前に立った。


 何冊も並んだ背表紙を眺める。

 その中から一冊、昔から何度も読み返している本を抜き取った。


 ページの途中を開き、査定票をそっと挟む。


 閉じる。


 それで終わりだった。


 隠したわけではない。

 捨てたわけでもない。

 返したわけでもない。


 そこにあると知っていて、自分で持っている。


 私は本を棚へ戻した。


 売るとも、売らないとも、まだ決めていない。

 けれど少なくとも、急いで答えを出さなくていいのだと、今日は少しだけ本当に思えた。


 待つということは、何も決めないことではない。


 まだ決めないと、自分で決めることなのだ。


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