第42話 約束は続いている
その日、私は木箱のことを考えながら店へ向かった。
けれど不思議と、前のような落ち着かなさはなかった。
中に何が入っているのか。
なぜ店主は売れないと言ったのか。
誰との約束なのか。
知りたい気持ちが消えたわけではない。
ただ、無理に知ろうとしなくてもいいと思えるようになっていた。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
店主はいつものようにカウンターの奥にいた。
今日は愛美の姿はない。
私は席に座る。
棚の奥にある木箱が、視界の端に入った。
けれど私は、前のようにそこへ意識を引っぱられることはなかった。
「いつものものでよろしいですか」
「はい」
店主は静かにコーヒーを淹れ始める。
湯の音が、店の静けさにゆっくり溶けていく。
私はその音を聞きながら、この店で知ったことを思い返していた。
記憶に値段が付くこと。
その値段が、誰かの入札額であること。
必要としている人がいること。
必要がなくなれば、入札は消えること。
高いことが必ずしも良いことではないこと。
そして、渡してはいけない記憶もあること。
最初はただ不思議な店だと思っていた。
けれど今は、少し違う。
ここは秘密を売る場所ではない。
人が失ったものや、埋められなかったものや、手放せなかったもののそばに、静かに置かれている場所なのだと思う。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はカップに手を添えたまま、しばらく黙っていた。
何を聞くべきか、もう自分の中では決まっていた。
「店主さん」
「はい」
「約束って、終わる日は来るんですか」
店主はすぐには答えなかった。
少しだけ考えるように目を伏せる。
その沈黙は、重いというより、長い時間を通ってきたもののように感じられた。
「終わる約束もあります」
私は静かにその言葉を聞いた。
店主は少し間を置いて、続ける。
「続ける約束もあります」
私は棚の奥の木箱を見た。
けれど、それを開けてほしいとは思わなかった。
「この店は?」
私がそう聞くと、店主はゆっくりと店の中を見渡した。
棚。
瓶。
コーヒーの湯気。
窓から入る午後の光。
そして、棚の奥の木箱。
そのすべてを一度静かに見てから、店主は言った。
「まだ続いています」
私はその言葉を聞いて、小さく息をついた。
まだ続いている。
それはたぶん、ただ店が営業しているという意味ではない。
この場所がここにある理由そのものが、まだ終わっていないということなのだろう。
誰かとの約束が。
渡せなかった記憶が。
手放せなかった思いが。
今もこの店を続けさせている。
私はその中身を知らない。
約束の相手も知らない。
店主の過去も、まだ何ひとつ知らない。
けれど、それでもいいと思えた。
知らないままでも、この店がここにある理由だけは、少しわかる気がしたからだ。
私はコーヒーを飲み終え、席を立った。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
店主はいつものように静かに頭を下げた。
扉を開けると、鈴の音が鳴る。
外へ出ると、午後の光はやわらかく傾いていた。
私はそのまま歩き出す。
振り返らなかった。
あの店は、秘密を隠す場所ではない。
誰かの約束が、今日も静かに続いている場所だった。




