第43話 継続中の入札
数ヶ月後。
閉店後の店内は、昼間よりもさらに静かだった。
最後の客を見送り、店主は扉の札を裏返す。
閉店の文字が表に出る。
小さな音を立てて鍵をかけると、店の中にはもう誰の気配も残らなかった。
店主はいつものようにカップを洗い、布巾をたたみ、カウンターを拭いた。
棚に並ぶ瓶は、落とした灯りの下で鈍く光っている。
窓際の席も、木の床も、昼間と同じ形のまま、夜の静けさの中に沈んでいた。
すべてを終えてから、店主はしばらく動かなかった。
静かな店だった。
もともと騒がしい店ではない。
けれど閉店後の静けさは、昼間のそれとは少し違う。
誰にも見られていない時間だけが持つ、深く沈んだような静けさだった。
やがて店主は、棚の奥へ目を向けた。
そこに木箱がある。
古びた箱だった。
長い時間をこの店で過ごしてきたはずなのに、どこか時間の外に置かれているようにも見える箱だった。
店主は棚へ近づき、両手でそれを取り上げる。
重くはない。
けれど、軽いとも思わなかった。
カウンターへ戻り、箱をそっと置く。
しばらくそのまま見つめていたが、やがて静かに蓋へ手をかけた。
開く。
中には、一枚の紙が入っていた。
査定票だった。
何年も前から、そこにあるもの。
折り目もなく、汚れもなく、けれど新しくも見えない、不思議な一枚だった。
店主はそれを取り出す。
紙面の上部には、見慣れた形式で項目が並んでいる。
だが、金額の欄は空白だった。
査定額は、どこにも書かれていない。
代わりに、中央に短く二行だけ記されている。
入札者 一名
継続中
店主はその文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。
驚く様子はない。
初めて見るものでもないのだろう。
けれど、見慣れているというふうでもなかった。
長い時間をかけても、慣れることのないものがある。
その紙は、たぶんそういうものだった。
店主は小さく息をつき、それからほんのわずかに笑った。
「まだ終わりませんか」
誰に向けた言葉でもないようでいて、確かに誰かへ向けられた声だった。
返事はない。
店の中は静まり返っている。
窓の外を通る風の気配さえ、今は遠かった。
店主は査定票を指先でなぞることもせず、ただ見ていた。
入札者 一名。
継続中。
金額はない。
競り上がる数字もない。
高いとも安いとも言えない。
けれど、それでもなお続いている。
この記憶は、今も誰かの中で終わっていない。
それは執着なのかもしれない。
祈りなのかもしれない。
あるいは、約束なのかもしれなかった。
この店には、さまざまな記憶が持ち込まれる。
忘れたい記憶。
失いたくない記憶。
誰かに渡したい記憶。
誰にも渡したくない記憶。
値段のつくものもあれば、つかないものもある。
入札が増えることもあれば、ある日ふいに消えることもある。
必要とされる記憶がある。
必要とされなくなる記憶もある。
けれど、この一枚だけは違った。
終わらない。
消えない。
誰か一人が、ずっと手を離さないままでいる。
店主はもう一度、かすかに笑った。
それは嬉しさにも、困惑にも見える、曖昧な笑みだった。
「困った人だ」
昔から、待たせることだけは得意だった。
約束の時間には、いつも少し遅れてくる人だった。
思い出したように目を伏せて、店主は査定票を木箱へ戻した。
紙が箱の底に触れる音は、ほとんどしなかった。
蓋を閉じる。
それで何かが終わるわけではない。
何かが片づくわけでもない。
ただ、いつものようにそこへ戻しただけだった。
店主は木箱を抱え、再び棚の奥へ戻す。
元の場所に置くと、箱は何事もなかったように静かにそこに収まった。
店の中には、またいつもの景色だけが残る。
棚。
瓶。
カウンター。
窓際の席。
そして、見ようとしなければ気づかない場所にある木箱。
店主はしばらくその場に立っていたが、やがてカウンターへ戻り、消し忘れがないか確かめるように店内を見渡した。
誰もいない。
けれど、完全にひとりだとは思えない夜もある。
店主は照明をさらに落とし、扉の前まで歩いた。
鍵に手をかける前に、一度だけ振り返る。
暗がりの中で、棚の奥はもうよく見えなかった。
それでも、そこに木箱があることだけはわかっていた。
入札者 一名。
継続中。
その二行は、閉じた箱の中にしまわれたあとも、店主の胸のどこかに静かに残っていた。
店主は目を細める。
「明日も、お待ちしています」
それは客に向けるいつもの言葉に似ていた。
けれど今は、誰もいない店の中へ落ちていく、ひどく小さな独り言だった。
返事はない。
ただ、夜の静けさだけが、変わらずそこにあった。




