第44話 お預かりできない記憶
閉店後、店主は棚の奥の木箱を見ていた。
蓋を開けなくても、中に何があるかはわかっている。
査定票。
入札者 一名。
継続中。
その二行を見るたび、思い出す夜があった。
数十年前。
まだ若かったころ、店主は客としてこの店を訪れた。
その頃の店は、今とは少し違っていた。
瓶はあったが、今のように棚へ整然と並べられてはいなかった。
窓際の席と木の床は同じ場所にあったものの、店全体はもっと簡素で、どこかむき出しの静けさを抱えていた。
若い頃の店主は、扉の前で少しためらってから中へ入った。
ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうにいたのは、先代の店主だった。
白髪まじりの髪に、穏やかな目をした男だった。
その声には、客を迎える柔らかさと、どこか見透かすような静けさがあった。
若い頃の店主は、勧められるまま席に座った。
しばらくは何も言えなかった。
何を言えばいいのか、自分でもわからなかった。
ただ、ここへ来れば何かが変わるかもしれないと、そんな曖昧な期待だけを抱いていた。
先代は急かさなかった。
湯気の立つカップを一つ置き、それ以上は何も尋ねず、彼が口を開くのを待っていた。
やがて若い頃の店主は、低い声で言った。
「記憶を、売りたいんです」
先代は驚かなかった。
ただ、静かにうなずいた。
「どのような記憶ですか」
彼は答えなかった。
「……苦しい記憶です」
それだけを言うのが精いっぱいだった。
先代はそれ以上詳しくは聞かなかった。
ただ、すぐには紙を出さなかった。
彼の顔を静かに見ていた。
失ったものの重さではなく、
それでもなお手放せずにいるものを量るような目だった。
彼はその視線から逃れるように、わずかに目を伏せた。
やがて先代は、一枚の紙を取り出した。
紙に何かを書き込み、それを見つめたまま、しばらく動かなかった。
彼は待った。
早く終わってほしかった。
早く決めてほしかった。
この苦しさに値段がつくのなら、もうそれでよかった。
やがて先代は、査定票を静かに伏せた。
彼は息をのむ。
渡されるのだと思った。
これで終わるのだと思った。
けれど、先代はその紙を差し出さなかった。
「これは、お預かりできません」
若い頃の店主は顔を上げた。
「……なぜですか」
先代は静かに査定票へ手を置いたまま、答えた。
「値段が付かなかったんですか」
「いいえ」
先代は首を振る。
「価値がないからではありません」
彼は何も言えなかった。
先代は続ける。
「この記憶を手放したら、あなたは楽になるでしょう」
その言葉に、彼の指先がわずかに震えた。
「ですが、その記憶があったから出会えた人や、感じたものまで、一緒に失います」
若い頃の店主はうつむいた。
そんなことは考えたくなかった。
考えれば、手放せなくなる気がした。
「でも、苦しいんです」
声はかすれていた。
「もう思い出したくないんです」
先代は少しも揺れなかった。
「苦しい記憶と、不要な記憶は同じではありません」
彼は息を止めた。
先代の声は静かだった。
静かなのに、その言葉だけが胸の奥へ深く沈んでいく。
「あなたが今、手放したいのは記憶そのものではないのでしょう」
先代は言う。
「耐えられない今を、終わらせたいだけだ」
彼は反論できなかった。
その通りだった。
忘れたいのではない。
消したいのでもない。
ただ、この苦しさから逃げたかった。
朝が来ることも、夜が長いことも、何を見ても思い出してしまうことも、全部終わらせたかった。
先代は査定票を静かにたたみ、木箱の中へしまった。
「いつか、この記憶を持ったまま生きられる日が来るかもしれません」
若い頃の店主は顔を上げる。
「その時まで、預かっておきます」
意味がわからなかった。
売れないのでもない。
捨てるのでもない。
戻されるのでもない。
ただ、預かる。
そんなことがあるのかと、彼は思った。
「……そんな日、来るんでしょうか」
思わずこぼれた声に、先代は少しだけ目をやわらげた。
「来るかもしれません」
断言ではなかった。
慰めでもなかった。
けれど、その曖昧さが、かえって嘘のない言葉のように思えた。
彼はうつむいたまま動けなかった。
悔しかった。
見透かされたことが悔しかった。
手放せなかったことが悔しかった。
それなのに、心のどこかで少しだけ救われてもいた。
先代はそれ以上何も言わなかった。
ただ、冷めかけたコーヒーを新しいものに替え、彼の前へ置いた。
湯気が立ちのぼる。
彼はその湯気を見つめたまま、長いこと動かなかった。
やがて立ち上がり、何も言わずに頭を下げた。
先代もまた、何も聞かずに見送った。
ベルが鳴る。
店を出たとき、外はもう夜になっていた。
風は冷たかった。
それでも、店へ入る前より少しだけ、呼吸がしやすくなっている気がした。
あの日から。
店主は木箱を見つめたまま、小さく笑う。
「私も、ずいぶん待たされましたね」
返事はない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。




