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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第3章 約束の店
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第45話 約束を受け継ぐ

 閉店後の店内で、店主は木箱を見つめていた。


 棚の奥に置かれたその箱は、長いあいだ誰の手にも渡らず、ただそこにあり続けている。

 古びた木目には細かな傷が増え、角は少しだけ丸くなっていた。

 何度も手に取られ、何度も戻され、それでも開かれないまま残されてきた時間が、その箱には静かに染みついているようだった。


「これは、お預かりできません」


 あの日の先代の言葉を、店主は今でもはっきりと思い出せた。


 あのときは意味がわからなかった。

 なぜ売れないのでもなく、返されるのでもなく、預かられるのか。

 なぜ苦しい記憶を手放すことが、救いにならないのか。

 なぜ先代は、あれほど静かな声で、あれほど残酷なことを言えたのか。


 けれど今なら、少しだけわかる。


 あの言葉は拒絶ではなかった。

 突き放すためのものでもなかった。

 あれはたぶん、まだ終わらせてはいけないものを、終わらせないための言葉だったのだ。


 店主は小さく息をつき、かすかに笑った。


「結局、私は預かる側になりましたね」


 誰に聞かせるでもない独り言は、静かな店の中へやわらかく沈んでいった。


 数年後。


 それから若い頃の店主は、季節がいくつか巡るあいだに、何度もこの店を訪れるようになった。


 最初のころは、何かを話さなければならない気がしていた。

 何も持たずに来ることが、どこか後ろめたくもあった。

 けれど先代は、そんな彼を咎めなかった。


 話したいことがある日もあった。

 何も話せない日もあった。

 ただ座って、出されたコーヒーの湯気を見ているだけの日もあった。


 それでも先代は、いつも同じように迎えた。


 もう記憶を売るためではなかった。

 ただ、あの店で過ごす時間が、少しだけ呼吸をしやすくしてくれた。

 何かが解決するわけではない。

 苦しさが消えるわけでもない。

 それでも、ここにいるあいだだけは、急いで答えを出さなくても許される気がした。


 先代はいつも変わらなかった。


 記憶を売りたい人。

 忘れたい人。

 手放せない人。

 取り戻したいと願う人。

 もう二度と思い出したくないと震える人。


 さまざまな人がこの店を訪れ、そのたびに先代は簡単な答えを出さなかった。


 売れば楽になる記憶もあった。

 忘れれば前へ進めるように見える人もいた。

 今すぐ手放したほうが救われるように見える夜も、きっとあった。


 それでも先代は、すぐに瓶を差し出すことはしなかった。


 相手の言葉だけではなく、沈黙の長さを見ていた。

 差し出された記憶だけではなく、その人がまだ抱えたままにしているものを見ていた。

 若い頃の店主には、その判断の基準が最後までよくわからなかった。

 ただ、先代が見ているのは記憶そのものではなく、その人の時間なのだということだけは、少しずつわかるようになっていった。


 若い頃の店主は、閉店後の店でその様子を思い返しながら、ある日、先代に尋ねた。


「どうして売らせてあげないんですか」


 先代はカップを拭く手を止めずに答えた。


「本人が欲しい答えと、本当に必要な答えは違うからです」


 若い頃の店主は黙った。


 先代は続ける。


「人は苦しいとき、早く終わらせたくなります。

 忘れたい。消したい。取り戻したい。

 そう思うこと自体は、間違いではありません」


 そこでようやく手を止め、先代は彼を見た。


「ですが、急いで答えを出したせいで、あとから失うものもあるのです」


 若い頃の店主は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。

 けれど、否定もできなかった。


 自分もまた、あの夜、早く終わらせたかったのだ。

 苦しさの理由ではなく、苦しさそのものを消したかった。

 そのためなら、何を失うのかさえ考えないふりをしていた。


 先代の前では、言葉にできないものほど見透かされる気がした。


 ある日、先代が体調を崩した。


 店のカウンターに座るその姿は、以前より少し小さく見えた。

 声は変わらず穏やかだったが、立ち上がる動作や、棚へ手を伸ばすしぐさに、わずかな遅さが混じるようになっていた。

 カップを持つ手も、ほんの少しだけ頼りなく見えることがあった。


 それでも先代は、店を閉めようとはしなかった。


 いつものように扉を開け、いつものように客を迎え、いつものように静かに話を聞いた。

 その姿を見ていると、若い頃の店主は胸の奥が落ち着かなくなった。


「休んでください」


 ある閉店後、思わずそう言うと、先代は笑った。


「もう十分休みましたよ」


 冗談のように言ってから、先代はしばらく棚を見つめていた。


 瓶。

 査定票。

 積み重なった時間。

 ここを訪れ、ここで迷い、ここで答えを急がずに帰っていった人たちの気配。


 そして、不意に言った。


「この店を続けませんか」


 若い頃の店主は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。


「私が?」


 先代はうなずいた。


「あなたは、もう客ではありませんから」


 若い頃の店主は息をのんだ。


 いつからそうなったのか、自分ではわからなかった。

 ただ気づけば、売るためではなくここへ来るようになっていた。

 客として座るだけでなく、閉店後にカップを下げることもあった。

 棚の埃を払う先代の横で、黙って時間を過ごすことも増えていた。

 忙しい日には、言われる前に椅子を整え、窓を閉め、照明を落とすこともあった。


 それでも、自分がこの店の内側に立っているなどとは思っていなかった。


「私に、できるでしょうか」


 先代は少しだけ笑った。


「できるかどうかで決める仕事ではありません」


 若い頃の店主は、ますますわからなくなる。


「では、何をすればいいんですか」


 先代は棚の奥へ目を向けた。


 瓶。

 査定票。

 そして、木箱。


「決めないことです」


 若い頃の店主は眉をひそめた。


「決めない?」


「人は苦しい時、すぐ答えを欲しがります」


 先代の声は静かだった。


「忘れたい。

 消したい。

 取り戻したい。


 ですが、人生には時間が必要なものがあります」


 若い頃の店主は、何も言えなかった。


 先代は続ける。


「その場では正しいように見える答えでも、

 十年後には違う意味を持つことがあります。

 逆に、今は耐えられないと思うものが、

 あとになってその人を支えることもある」


 店の中は静かだった。

 時計の音だけが、ゆっくりと夜を刻んでいる。


「だから、この店が急いで決めてはいけないのです」


 若い頃の店主は、その言葉を胸の中で繰り返した。

 決めないこと。

 それは何もしないことではなく、相手の時間を奪わないことなのだと、そのとき少しだけわかった気がした。


 先代は棚の奥から木箱を取り出した。

 その箱を見るのは、彼にとって初めてだった。


「これは?」


 先代は木箱を静かに撫でた。

 その手つきは、古い傷に触れるようでもあり、壊れやすいものを確かめるようでもあった。


「私が、まだ預けたままにしているものです」


 若い頃の店主は目を見開いた。


「売るんですか?」


 先代は首を振る。


「いいえ」


「では、なぜここに?」


 先代は少し笑った。


「いつか誰かが必要とするかもしれないからです」


 若い頃の店主は首をかしげた。


「必要なら、渡せばいいのでは?」


 先代は静かに答えた。


「必要としていることと、渡していいことは違います」


 その言葉は、店の空気にゆっくりと沈んでいった。


 若い頃の店主は木箱を見つめた。

 小さな箱だった。

 けれど、その中には時間そのものが閉じ込められているように思えた。

 誰かの迷いも、ためらいも、言えなかった言葉も、そのまま眠っているように見えた。


 先代は彼に向き直る。


「もし迷う人が来たら」


 若い頃の店主は顔を上げた。


「売るか、売らないかではなく」


 先代の目は穏やかだった。


「その人が、その記憶を持ったまま生きられるかを見てください」


 若い頃の店主は、ゆっくりとうなずいた。


 その言葉の意味を、あのとき本当に理解できていたわけではない。

 けれど、忘れてはいけない言葉だということだけはわかった。

 たぶんこの先、何度も迷い、そのたびに思い出す言葉になるのだろうとも思った。


 それからしばらくして、店主はこの店に立つようになった。


 店を継いだのだと、人は言った。

 けれど店主には、そうは思えなかった。


 受け取ったのは、店そのものではない。

 売るための技術でも、査定の手順でもない。

 棚の並べ方でも、コーヒーの淹れ方でもなかった。


 迷う人を急がせないこと。

 苦しみの中で出した答えを、そのまま正解にしないこと。

 誰かが自分の記憶と向き合うための時間を、奪わずに守ること。


 店主が受け継いだのは、その約束だった。


 現在。


 店主は木箱を見つめた。


 あの日から、ずっと守ってきた。

 記憶を売るためではない。

 誰かが、自分の記憶と向き合う時間を守るために。


 売りたいと願う人もいた。

 今すぐ忘れたいと泣く人もいた。

 このままでは生きていけないと、震える声で訴える人もいた。


 そのたびに店主は迷った。

 先代のように見えているのか、自分にはわからなかった。

 この人から本当に奪ってはいけないものは何か。

 今ここで差し出すべきなのか、それとも待つべきなのか。

 答えはいつも簡単ではなかった。


 それでも、急がないことだけは守ってきた。

 すぐに終わらせてしまわないことだけは、忘れないようにしてきた。


 木箱を棚へ戻そうとしたとき、蓋の隙間から一枚の古い写真が少しだけのぞいた。


 店主は手を止める。


 そこに写っていたのは、若い頃の先代だった。


 そして、その隣には誰かがいた。


 店主はその写真を見つめる。


 もう何十年も前の写真だった。

 けれど、その人の笑顔だけは今でも鮮明に残っている。


「まだ、待っていますよ」


 写真の中の誰かは何も答えない。


 店主はそっと写真を戻し、木箱の蓋を閉じた。


 箱の中には、古い査定票が眠っている。


 入札者 一名。

 継続中。


 店主はその文字を見つめる。


 そして、いつものように小さく笑った。


「本当に、待つことが好きな人ですね」


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