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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第3章 約束の店
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第46話 記憶の行き先

 それからしばらく経って、私はもう一度あの店を訪れた。


 最初にここへ来たとき、私の中にあったのは、消したいという気持ちだけだった。

 楽になりたかった。

 思い出さずに済むなら、それでいいと、本気で思っていた。


 けれど今日は、少しだけ違っていた。


 扉の前で、私は一度だけ立ち止まる。

 ガラス越しに見える店内は、あの日と同じように静かだった。

 棚に並ぶ瓶も、窓際の席も、カウンターの向こうに立つ店主の姿も、何も変わっていないように見えた。


 それでも、変わっていたのはたぶん私のほうだった。


 扉を開けると、ベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 店主はいつものようにそう言った。

 驚いた様子はなかった。

 まるで、私がまたここへ来ることを知っていたみたいだった。


 私は少しだけ笑う。


「やっぱり、わかっていましたか」


 店主は首を振った。


「いいえ」


 それから少しだけ間を置いて、静かに続ける。


「ただ、戻ってくる人はいますから」


 私はその言葉に、なぜだか少しだけ救われた気がした。


 席に座ると、店主は何も聞かずにコーヒーを置いた。

 湯気がゆっくりと立ちのぼる。

 私はその白い揺らぎを見つめながら、しばらく何も言えなかった。


 何から話せばいいのかわからなかった。

 けれど、話さずに帰ることも、もうしたくなかった。


「あの日から、ずっと考えていました」


 ようやくそう言うと、店主は黙ってうなずいた。


「本当に消したかったのは、あの記憶だったのかって」


 言葉にしてしまうと、思っていたよりも静かな響きだった。


「思い出すたびに苦しくて、何度も、なくなればいいのにって思いました」


 私はカップに触れる。

 まだ熱かった。


「でも……たぶん、消したかったのは記憶そのものじゃなかったんです」


 店主は何も言わない。

 急かさない。

 その沈黙が、続きを話してもいいと言ってくれている気がした。


「なくしたかったんです」


 自分でも、何を言おうとしているのか、言いながら確かめるようだった。


「あの日のことを、じゃなくて」


 私は一度息をつく。


「あの日から、ずっと苦しんでいる自分を」


 言った瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、少しだけ形を持った気がした。


 私はずっと、あの日のせいにしていたのかもしれない。

 あの日がなければ、こんなふうにはならなかったと。

 あの記憶さえ消えれば、今の苦しさも消えるのだと。


 けれど本当は、記憶そのものよりも、そのあとに続いてしまった時間のほうが、ずっと重かったのだ。


「なくなってほしかったわけじゃ、ないのかもしれません」


 自分でも不思議なくらい、その言葉はすんなり出てきた。


「苦しかったです。今も、たぶん苦しいです」


 私は少し笑った。

 うまく笑えていたかはわからない。


「でも、その記憶があるから今の自分がいるなら、まだ持っていたいです」


 そこで少しだけ言葉を止める。


「……今は、ですけど」


 店主は静かに私を見ていた。

 その目は、何かを評価するためのものではなかった。

 正しいとか、間違っているとか、そういうことではなく、ただ私の言葉が私の中から出てきたものかどうかを見ているようだった。


 やがて店主は、小さくうなずいた。


「それでいいのだと思います」


 それは背中を押す言葉ではなかった。

 許可でもなかった。

 ただ、今の私の答えを、そのまま置いておいてくれる言葉だった。


 店主は手元の査定票を静かにたたみ、引き出しへしまった。


 売るためではなく、捨てるためでもなく。

 今はまだ、決めないために。


 その動きを見て、私はようやく息を吐いた。


 しばらくして、もう一度ベルが鳴った。


 振り向くと、愛美が立っていた。


 私は少し驚いた。

 けれど愛美は、驚いた様子を見せることもなく、ただ静かにこちらを見た。


「……来ていたんですね」


 その声には、責める響きはなかった。

 むしろ、少しだけ安堵しているように聞こえた。


「あなたも」


 私がそう言うと、愛美は小さくうなずいた。


 それだけで十分だった。


 愛美もまた、私とは別の場所で、別の時間を過ごしながら、ここへ戻ってきたのだとわかった。


 店主は何も言わず、愛美にも席を勧めた。


 愛美は私の隣ではなく、少し離れた席に座った。

 その距離が、今の私たちにはちょうどよかった。


 しばらく黙っていたあと、愛美が口を開く。


「私は、全部残したいわけじゃありません」


 その言葉は、最初からまっすぐだった。


「苦しかったこともあります。忘れたいこともあります」


 愛美はカップに目を落としたまま続ける。


「思い出したくないことだって、たぶんあります」


 私は黙って聞いていた。

 愛美の言葉は、私のものとは少し違っていた。

 でも違うからこそ、ちゃんと愛美の言葉だった。


「でも」


 愛美はそこで少しだけ笑った。


「あの時の私まで、否定したくないんです」


 店の中が静かになる。


「嫌だったことは嫌だったし、傷ついたことは傷ついたままです」


 愛美は、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。


「きれいな思い出にしたいわけじゃありません。

 大切だったって、無理に言いたいわけでもないんです」


 その声は静かだったけれど、揺れてはいなかった。


「でも、それでも、あの時間まで嘘にしたくない」


 私はその言葉を聞いて、愛美らしいと思った。

 痛かったことを、なかったことにしない。

 傷ついた自分を、きれいに言い換えない。

 そのまま認めた上で、それでも消さないと決める。


 それは私の答えとは少し違う。

 私はまだ、痛みごと抱えるしかないと思っている。

 けれど愛美は、痛みを痛みとして認めたまま、自分の中に置く場所を決めようとしていた。


 店主は愛美の話も、最後まで黙って聞いていた。


 やがて静かに言う。


「残すことと、縛られ続けることは、同じではありません」


 愛美は顔を上げる。


 店主は続けた。


「忘れないまま、少しずつ置き方を変えていくこともできます」


 愛美はすぐには答えなかった。

 けれど、その言葉を拒まなかった。


「……そうできたら、いいです」


 小さな声だった。

 でも、その声には、最初にこの店へ来たときにはなかったやわらかさがあった。


 それから私たちは、しばらく何も話さなかった。


 沈黙は気まずくなかった。

 何かが解決したわけではない。

 明日から急に楽になるわけでもない。

 それでも、ここへ来る前とは少しだけ違う場所に、自分たちが立っていることだけはわかった。


 帰るころには、外はもう夜になっていた。


 店を出る前に、私は振り返る。


「この店って……記憶を売る店じゃなかったんですね」


 店主は少しだけ考えるように目を伏せた。


「売ることもできます」


 静かな声だった。


「ですが、本当に必要なのは」


 そこで言葉を切り、私と愛美を順に見る。


「売らなくても生きられる日まで、待つことなのかもしれません」


 私は何も言えなかった。


 愛美も黙っていた。


 けれど、その言葉は不思議と、答えのようには聞こえなかった。

 むしろ、これから先も何度か迷うだろう私たちのために、急がなくていいと言ってくれているように聞こえた。


 私たちは小さく頭を下げ、店を出た。


 ベルが鳴る。


 夜の空気は少し冷たかった。

 それでも、最初にこの店を訪れた日のような息苦しさはなかった。


 何かを失ったわけではない。

 何かが消えたわけでもない。


 ただ、自分の中に残るものを、前より少しだけ恐れずにいられる気がした。


 扉が閉まり、足音が遠ざかったあと、店主は一人で店内に残っていた。


 しばらく動かずに立っていたが、やがて静かに棚の奥へ手を伸ばす。


 木箱だった。


 長いあいだ守ってきた箱。

 何度も見つめ、何度も戻し、それでも開けることのなかった箱。


 店主はそれをそっとカウンターへ置いた。


 先代の言葉が、ふと胸の奥によみがえる。


 必要としていることと、渡していいことは違います。


 店主は目を伏せる。


 今なら、その意味が少しわかる気がした。


 先代が守っていたのは、記憶そのものではなかった。

 その記憶を受け取る人が、受け取れる時まで失わずにいられる時間だったのだ。


 そして自分もまた、同じことをしていたのかもしれない。


 私にも。

 愛美にも。


 答えを渡したのではない。

 答えを出せるまでの時間を、ただ壊さないようにしていただけだった。


 店主はゆっくりと木箱の蓋を開けた。


 中には、古い査定票がある。

 一枚の写真がある。

 そして、小さな瓶がひとつ。


 店主はまず査定票を手に取った。


 入札者 一名。

 継続中。


 その文字は、何十年も前から少しも変わっていない。


 店主は小さく笑った。


「本当に、長いですね」


 次に写真へ目を落とす。


 若い頃の先代。

 その隣には、誰かがいる。

 もう何十年も前の笑顔だった。


 そして店主は、小さな瓶を手に取る。


 透き通ったガラスの向こうに閉じ込められた記憶は、何も語らない。

 けれど、その沈黙の中には、長い時間だけが確かに残っているようだった。


「あなたも、ずっと待っていたんですね」


 店主自身にも、それが誰に向けた言葉なのかわからなかった。


 店主は写真と小瓶をそっと箱の中へ戻した。


 まだ終わっていないのだと思った。

 けれど、終わっていないことは、止まっていることとは違う。


 待っているあいだにも、時間は流れている。

 人は変わる。

 記憶の意味も変わる。

 受け取れなかったものが、いつか受け取れるものになる日もあるのかもしれない。


 店主は木箱の蓋を閉じる。


 それを再び棚の奥へ戻したとき、窓の外は少しだけ白みはじめていた。


 翌朝。


 店はいつものように開いた。


 棚に並ぶ瓶も、窓際の席も、昨日と変わらない。

 木箱もまた、棚の奥に静かに置かれている。


 扉のベルが鳴る。


 新しい客が入ってくる。


 店主は顔を上げた。


「いらっしゃいませ」


 その声は、いつもと同じだった。


 棚の奥には、木箱が変わらず残っている。


 入札者 一名。

 継続中。


 店には今日も、答えを探しに来る人がいる。

 けれどこの場所が守っているのは、答えではない。

 その人が、自分の記憶と向き合える日まで、急がずにいられる時間だった。


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