第8話 足枷の成功
8話
その男は、店に入ってきたときから、どこか謝っているように見えた。
年は三十代半ばほど。濡れた傘をきちんと畳み、入口の脇に揃えて置く。スーツの皺は少なく、靴も磨かれていた。目立たず、乱さず、はみ出さずに生きてきたのだろうと、見ただけでわかる。
店主が「いらっしゃいませ」と声をかける。
男は少し肩を揺らし、それから会釈した。
私はいつもの席から、その様子を見ていた。
「……あの、ここって」
男は店の中を見回しながら言った。
棚に並ぶ小瓶を見ても、好奇心より先に戸惑いが浮かぶ。ここへ来る客はたいてい、何かを決めて来ているくせに、最後のところでまだ迷っている。
「記憶の売買をしています」
店主がそう答えると、男は曖昧にうなずいた。
「本当に、あるんですね。こういう店」
冗談だと笑って帰るつもりはないらしかった。
店主が椅子を勧めると、男は一拍置いてから腰を下ろした。その動きにも、妙な遠慮があった。座っていいかどうか、最後まで確かめているような座り方だった。
「今日は、売却ですか。購入ですか」
男は膝の上で手を組み、少し俯いた。
「売るほうで」
「どんな記憶を」
「……成功した記憶です」
その答えに、私は思わず男の顔を見た。
成功の記憶。
目の前の男は、それを持っている側の人間には見えなかった。何かを成し遂げてきた人間というより、何も壊さず、何もはみ出さず、無難にここまで来た人間に見えた。
「お名前を」
「三崎です。三崎翔」
店主が帳簿に名前を書き留める。
三崎翔。三十四歳。営業職。
「話せる範囲で構いません。どんな記憶ですか」
三崎は少し迷ってから口を開いた。
「学生の頃、営業のロールプレイ大会みたいなものがあって。そこで、全国まで行ったんです」
「全国」
「はい。最後、壇上で発表して、賞をもらいました。大勢の前で名前を呼ばれて……その時だけは、自分でも、ちゃんとやれたって思えたんです」
言い終えたあと、三崎は少しだけ口元を引いた。
笑ったというより、そんな話をする自分を持て余しているような顔だった。
「それを、売りたいんですね」
「はい」
返事は早かった。
「なぜですか」
三崎はすぐには答えなかった。
店の奥で、時計の針が小さく鳴る。
「……あの記憶があると、今の自分が余計に駄目に見えるんです」
私は黙って三崎を見た。
店主も急かさなかった。
「仕事で大きな失敗はしていません。でも、大きな成功もないんです。無難にやってきただけで、自分から前に出たことはほとんどない。昇進の話が出ても、自分には無理だと思ってしまうし、会議でも、言いたいことがあっても飲み込んでしまう」
三崎は苦く笑った。
「失敗しないことばかり考えてるんです。勝ちたいわけじゃない。ただ、これ以上、自分が駄目だと証明したくないだけで」
その言葉が、妙に胸に残った。
何かを欲しがるより先に、失うことを恐れている人間の言葉だった。
「昔は少しはやれたのに、今は何もできない。あの記憶があるせいで、そうやって比べてしまうんです」
「だから、手放したい」
「持っていても、苦しいだけなら」
三崎はそこで言葉を切った。
それから、少しだけ笑った。
「自分にはもう使えないから」
少し間を置いて、三崎は続けた。
「……誰かの役に立つなら、そのほうがいい」
私は三崎の顔を見た。
投げやりな言い方にも聞こえた。けれど、本当にそれだけなら、こんなふうには言わない気がした。自分にはもう意味を持たなくなったものでも、誰かには必要かもしれない。そう思いたい気持ちが、わずかに残っているように見えた。
「売れば、その記憶に結びついた実感は薄れます」
店主が静かに言う。
「完全に消えるわけではありません。それでも、よろしいですか」
「はい」
迷いのない声だった。
ここへ来るまでに、何度も自分の中で言い聞かせてきたのだろう。
店主が抽出の準備を始める。
三崎は静かに椅子に身を預け、目を閉じた。
私は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
記憶を抜き出す瞬間、人の顔にはいろいろなものが浮かぶ。痛み、安堵、後悔、空白。三崎の表情に浮かんだのは、そのどれとも少し違っていた。眩しいものを見つめたあとのような、かすかな揺れだけが残った。
やがて処置が終わると、三崎はゆっくり目を開けた。
「……どうですか」
店主が尋ねる。
三崎は少し考えてから答えた。
「不思議です」
「何が」
「もっと、何かなくなる感じがすると思ってました」
「実際は」
「少し、静かになっただけです」
静か。
その言葉を、私は心の中で繰り返した。
記憶を失って泣く人もいる。軽くなったと笑う人もいる。けれど、静かになったと言った人は、あまりいなかった気がする。
三崎は立ち上がり、会計を済ませた。
帰り際、扉の前でふと足を止める。
「その記憶、誰か買うんでしょうか」
「必要とする人がいれば」
店主が答える。
「そうですか」
三崎は少しだけ笑った。
来たときより、ほんの少しだけ力の抜けた顔だった。
「じゃあ、その人には、ちゃんと役に立つといい」
そう言って、三崎は店を出ていった。
扉が閉まり、雨音が戻る。
しばらくしてから、店主が新しく棚に収めた小瓶を見た。
私もその光を目で追う。
成功の記憶。
大勢の前で結果を出し、認められた瞬間。
単なる栄光ではなく、やり切った手応えの残る記憶。
持ち主を救えなかった記憶が、別の誰かを救うことがあるのだろうか。
その答えは、まだわからなかった。
けれど私は、小瓶の中で揺れる淡い光を見ながら、ほんの少しだけ考えていた。
誰かにとって不要になったものが、別の誰かの明日を支えることもあるのかもしれないと。




