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思い出のオークション  作者: 冬馬
第1章 記憶を売る店
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第7話 保留のあいだ

 その店の前を通ることが、いつのまにか習慣になりつつあった。


 仕事帰り、駅から部屋までの道を少しだけ遠回りする。急ぐ理由のない日だけ、そうしているつもりだった。けれど実際には、急ぐ理由のある日でも、気づけば足がそちらへ向いていることがあった。


 売ると決めたわけではない。

 売らないと決めたわけでもない。


 透花の記憶は、まだ保留のままだった。


 その日も、入るつもりは半分しかなかった。店の前まで来て、灯りがついているのを見て、少し立ち止まる。ガラス越しに見える店内は静かで、客の姿はなかった。


 私はしばらく迷ってから、扉を開けた。


 ベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 店主はカウンターの奥にいた。顔を上げて、私を見る。その視線には、驚きも歓迎も、あまり強くはなかった。ただ、覚えている、という程度の静けさがあった。


「こんばんは」


「こんばんは」


 私は立ったまま、次の言葉を探した。


 査定を頼むわけではない。売ると決めたわけでもない。聞きたいことがあるような気もしたが、ここへ来る途中で考えていたことは、扉を開けた途端に少し曖昧になっていた。


「本日は」


 店主が言った。


「ご相談でしょうか」


 私は少しだけ苦笑した。


「……たぶん」


「たぶん」


「すみません。用があるような、ないような感じで」


 店主はそれを咎めるでもなく、ただ一度うなずいた。


「少し、いてもいいですか」


「かまいません」


 それだけで、私は少しだけ息をつけた気がした。


 奥の部屋ではなく、前の席に座る。店主は何も言わず、湯を沸かしはじめた。しばらくして、コーヒーの匂いが静かに広がる。


 私は店内を見回した。前に来たときと、ほとんど変わっていない。棚、古い時計、窓際の植物、磨かれた木の床。変わっていないことが、少しだけ安心でもあり、少しだけ不気味でもあった。


「最近は」


 私はカップが置かれてから言った。


「こういうふうに来る人もいるんですか」


「こういうふうに、とは」


「売るかどうか決めないまま、何度も」


 店主は少し考えるように間を置いた。


「いらっしゃいます」


「多いですか」


「少なくはありません」


 私はカップに手を添えた。まだ熱かった。


「皆、決めるんですか」


「決める方もいれば、決めない方もいます」


「決めないまま、来なくなる人も?」


「ええ」


 その答えに、私は少しだけ安心した。安心したことに、自分で少し驚いた。


 決めないまま来なくなる人がいる。それはつまり、ここで何かを選ばなくてもいい人がいる、ということだった。


 そのとき、ベルが鳴った。


 私は反射的に顔を上げた。


 入ってきたのは、二十代半ばから後半くらいに見える女性だった。淡いグレーのカーディガンに、紺色のスカート。肩にかけた布のトートバッグは少しくたびれていたが、清潔に使われている感じがした。髪は後ろでひとつに結ばれていて、店に入る前に少し深呼吸をしたようにも見えた。


「こんばんは」


 そう言って、彼女は小さく会釈した。私にも、店主にも向けたような、控えめで丁寧な挨拶だった。


「こんばんは。ご予約のお客様ですね」


「はい。小野寺です」


 店主はカウンターの引き出しから一枚の用紙を取り出した。


「小野寺美月様。本日は初回のご相談ですので、こちらにご記入をお願いいたします」


「はい」


 小野寺美月。

 名前だけで、少しだけその人の輪郭がはっきりした気がした。


 彼女は案内された席に座り、用紙を受け取った。ボールペンを持つ指先が、ほんの少しだけ強張っている。私は見ないようにしながら、視界の端でその様子を追ってしまう。


 店主は私のほうを見た。


「奥でお待ちになりますか」


 その言い方で、私は少し迷った。聞くつもりはなかった。けれど、聞こえてしまうことはあるのだろうと思った。


「……いえ、ここで」


 店主は短くうなずいた。


「聞くつもりがなくても、聞こえることはあります」


「はい」


「それでもよろしければ」


 私はもう一度うなずいた。


 小野寺は用紙に目を落としたまま、いくつかの欄を埋めていった。名前、年齢、連絡先。そこまでは迷いがない。けれど途中で、ペン先が止まる欄があった。売却を希望する記憶の対象、という項目だったのかもしれない。あるいは理由の欄だったのかもしれない。


 少しして、彼女は用紙を差し出した。


「ありがとうございます」


 店主はそれを受け取り、目を通す。


「小野寺美月さん、二十七歳」


 確認するように、静かに読み上げる。


「ご相談内容は、小学校高学年から中学時代にかけての学校生活に関する記憶について。こちらでよろしいですか」


「はい」


「本日は相談のみをご希望で」


「……はい。まだ、売るって決めたわけじゃなくて」


「承知しました」


 私はカップを持つ手に、少しだけ力が入るのを感じた。


 売ると決めたわけではない。

 その言葉が、自分の中にも同じ形で残っていることに気づく。


「差し支えなければ」


 店主が言った。


「どういった影響が、現在の生活に出ていますか」


 小野寺はすぐには答えなかった。考えているというより、どこから話せばいいのか迷っているようだった。


「普段は、そんなに……ひどくないんです」


 やがて彼女は言った。


「普通に働いていますし、友達とも会えますし。昔のことを、毎日思い出してるわけでもなくて」


 声は落ち着いていた。無理に明るくしている感じも、ひどく沈んでいる感じもない。ただ、言葉を選ぶのに慣れている人の話し方だった。


「でも、たまに駄目になることがあって」


「たとえば」


「笑い声です」


 私は思わず顔を上げた。


 小野寺は少しだけ困ったように笑った。


「変ですよね。笑い声って、別に悪いものじゃないのに」


「変ではありません」


 店主は言った。


「どのような場面で、そう感じられますか」


「子どもが何人か集まって、急にわっと笑うときとか。あとは、誰かが誰かを見て、意味ありげに笑う感じというか……」


 彼女はそこで言葉を探した。


「うまく言えないんですけど、自分に向けられてなくても、体が先に反応してしまうんです」


「体が」


「はい。肩が固まったり、息が浅くなったり。大したことじゃないって頭ではわかってるのに、教室にいたときみたいな気分になることがあって」


 教室。


 その単語だけで、私の頭の中にも、勝手に古い机や白い蛍光灯の光景が浮かんだ。けれどそれは私の想像でしかない。小野寺の見ている教室とは、きっと全然違う。


「現在のお仕事は」


 店主が用紙に目を落としながら尋ねる。


「保育補助です」


「子どもと接する機会が多いのですね」


「はい」


 小野寺は少しだけ笑った。


「子どもは好きなんです。だから、その……自分でも変だなって思ってて」


 その笑い方に、私は少しだけ救われるような気持ちになった。

 この人は、ただ傷ついたまま止まっている人ではないのだと思った。


「嫌いだからつらいわけじゃないんです」


 小野寺は続けた。


「むしろ、好きだから続けたいんです。今の仕事。でも、たまに、教室の空気だけが急に昔とつながることがあって」


「具体的な記憶として思い出されるのでしょうか」


「いえ……映像みたいには、あまり」


 彼女は首を横に振った。


「もっと断片です。廊下の音とか、上履きの裏の感じとか、黒板を爪で引っかいたみたいな声とか。あと、自分の名前の呼ばれ方」


 最後の一言だけ、少し小さかった。


 私は視線を落とした。

 名前の呼ばれ方。

 それだけで傷になることがあるのだと、改めて思う。


「卒業して、だいぶ経っています」


 小野寺は言った。


「もう終わったことだと思ってたんです。実際、終わってるんです。今さら当時の人たちに会うこともないし、何かされたわけでもないし」


 何かされたわけでもない。

 その言い方に、私は少し引っかかった。

 たぶん、何かはあったのだろう。けれど、それを大きな言葉で言い切ることに、彼女自身がまだためらっているのかもしれなかった。


「でも、残ってるんです」


 小野寺は、今度は笑わなかった。


「残ってるせいで、今の自分が急に小さくなる感じがして」


 店主は黙って聞いていた。


「売ったら」


 彼女は言った。


「そういうの、なくなりますか」


 店主は少しだけ間を置いた。


「軽くなる方はいます」


「なくなる、じゃなくて」


「はい」


「全部は消えないんですか」


「記憶の輪郭が薄れることで、反応が和らぐことはあります。ただ、長く身についた反応や習慣まで、完全に切り離せるとは限りません」


 小野寺はその答えを、思ったより落ち着いて受け止めているように見えた。


「そうですよね」


 彼女は小さくうなずいた。


「そんなに都合よくはいかないか」


「都合よくいく場合もあります」


 店主は言った。


「ただ、それを保証することはできません」


「……正直で助かります」


 小野寺は少しだけ笑った。

 その笑い方は、さっきより自然だった。


「全部なくしたいわけじゃないんです」


 彼女は言った。


「たぶん」


 その“たぶん”に、私はまた少し反応してしまう。


「全部なくしたら、自分が何を嫌だったのかも、わからなくなりそうで」


 店主は用紙の上に指を置いたまま、顔を上げた。


「では、なくしたいのは何でしょう」


 小野寺はすぐには答えなかった。


 店の時計が、ひとつ音を立てる。


「……戻される感じ、かもしれません」


 彼女はやがて言った。


「今の自分じゃなくて、そのときの自分に」


 私は息を止めた。


 それは、私にはない痛みのはずだった。

 けれど、少しだけわかる気もした。


 透花のことを思い出すたび、私はあの頃の自分に引き戻される。

 まだ透花がいた時間の、自分に。

 そこから先へ進めていない気がすることがある。


 もちろん同じではない。

 同じではないのに、記憶が今の自分を過去へ連れ戻すという意味では、どこかで触れていた。


「査定は可能です」


 店主が言った。


「ただし、今のお話をうかがう限り、売却そのものより先に、対象を絞る必要があるかもしれません」


「対象を」


「学校生活全体、という括りでは広すぎます。どの場面、どの時期、どの感覚が現在の生活にもっとも影響しているのか。そこが曖昧なままですと、手放したいもの以外まで薄れる可能性があります」


 小野寺は少し驚いたように目を瞬かせた。


「そんなふうに、選べるんですか」


「ある程度は」


「じゃあ、楽しかったことまで消えるわけじゃない」


「調整は可能です。ただし、完全ではありません」


 彼女はしばらく黙っていた。

 その沈黙は、迷いというより、考え直している時間のようだった。


「私」


 小野寺は言った。


「当時、ずっとつらかったわけじゃないんです」


 その言葉は、どこか言い訳のようでもあり、守りたいものの告白のようでもあった。


「嫌なことはあったんですけど、全部が全部じゃなくて。普通に話せる子もいたし、図書室は好きだったし、部活の帰り道とか、覚えていたいこともあるんです」


 私はその言葉に、少しだけほっとした。


 この人は、過去を丸ごと捨てたいわけではないのだ。

 傷だけを切り離したいと思っている。

 でも、傷と一緒にあったものまで失うのは怖いのだろう。


「でしたら」


 店主は言った。


「本日は売却の可否を急がず、まずは整理から始めるのがよろしいかと」


「整理」


「どの記憶を残したいのか。どの感覚を手放したいのか。ご自身の中で言葉にしてみることです」


 小野寺は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


「宿題みたいですね」


「似たようなものかもしれません」


 店主の声は相変わらず静かだったが、ほんの少しだけやわらいだ気がした。


 小野寺はそれに気づいたのか、小さく笑った。


「じゃあ、今日は相談だけにしておきます」


「承知しました」


「すみません、決めきれなくて」


「決めるために来られる方ばかりではありません」


 その言葉に、私はまた少しだけ救われる。


 小野寺は席を立った。トートバッグを肩にかけ、用紙の控えを受け取る。そのとき、彼女はふとこちらを見た。目が合う。


「あ、すみません。長くなってしまって」


 なぜか私に向かってそう言って、彼女は少し困ったように笑った。


「いえ」


 私は首を振った。


「……大丈夫です」


 それしか言えなかった。


 彼女は軽く会釈して、店を出ていった。ベルが鳴り、扉が閉まる。


 静けさが戻る。


 私はしばらく、冷めかけたコーヒーを見ていた。


「全部なくしたいわけじゃない」


 気づけば、口に出していた。


 店主は何も言わない。


「そういう人も、いるんですね」


「多いです」


「苦しい記憶でも」


「苦しい記憶だからこそ、他のものと絡み合っていることがあります」


 私はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


 透花の記憶は苦しい。

 けれど苦しいだけではない。

 だから保留のままなのだと、改めて思う。


「さっきの人は」


 私は言った。


「売ると思いますか」


「わかりません」


「店主でも」


「決めるのは、ご本人ですから」


 その答えは、前と同じようでいて、少し違って聞こえた。


 私は立ち上がった。長くいたつもりはなかったのに、外は思っていたより暗くなっていた。


「今日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「また来るかもしれません」


「ええ」


 店主はそれ以上、何も言わなかった。


 扉を開ける。ベルが鳴る。


 外の空気は少し冷えていた。私はコートの前を閉じて、駅のほうへ歩き出した。


 透花の記憶は、まだ売っていない。

 たぶん、しばらく売らない。

 でも、持ち続けると決めたわけでもない。


 保留のまま、私は歩いている。


 さっきの小野寺美月も、たぶん同じなのだろうと思った。

 売る前の時間。

 売らないまま過ぎていく時間。

 決められないまま、それでも一度言葉にしてみる時間。


 この店には、そういう時間が集まってくるのかもしれなかった。


 それぞれ違う記憶を抱えて。

 それぞれ違う痛みを持ったまま。

 値段をつける前の、まだ名前のつかない迷いごと持ち込んで。


 駅前の明かりが見えてきた。


 私はふと、透花のことを思った。

 思い出した、というほど鮮やかではない。ただ、名前のない感情の輪郭だけが、胸の奥に残った。


 それをまだ失っていないことに、少しだけ安堵した。

 同時に、それがあるかぎり、簡単には終われないのだとも思った。


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