第6話 写真の中のひと
その週の半ば、母から小さな段ボールが届いた。
送り状の文字を見たときから、少し嫌な予感がしていた。
実家から荷物が届くときは、大抵、必要なものより判断に困るもののほうが多い。
季節外れのタオル、昔使っていた食器、頼んでもいない保存容器。
そういうものに紛れて、ときどき過去が入っている。
箱を部屋の隅に置いたまま、私はその日は開けなかった。
けれど翌日の夜、夕飯を食べ終えてから、なんとなくカッターを手に取った。
中には、インスタント味噌汁の箱が二つ、レトルトのカレーが三つ、使い古した布巾が数枚、それから茶色い封筒が入っていた。
嫌な予感の正体は、たぶんそれだった。
封筒の表には、母の字で「前に言ってたやつかも」とだけ書いてあった。
前に言ってたやつ、という曖昧な言い方に、私は少し眉をひそめた。
母は昔から、肝心なところほど雑にぼかす。
封を切る。
中には写真が何枚か入っていた。
いちばん上にあったのは、見覚えのある川沿いの遊歩道だった。
春先の、まだ風の冷たい日。
欄干にもたれて笑っている透花が写っていた。
私はその場で動けなくなった。
写真の中の透花は、少しだけ顔を傾けていた。
髪が風で頬にかかっている。
カメラのほうを見ているのに、まっすぐ見ていないようにも見える、あの癖のある笑い方だった。
たぶん、私が撮った写真だ。
そう思ったのは、構図のせいだった。
少しだけ水平がずれていて、人物との距離も中途半端で、うまく撮ろうとして失敗した感じがある。
私らしいと思った。
椅子に座る。
写真を机の上に置いて、もう一度見る。
透花だ。
間違いなく透花だった。
でも、写真を見た瞬間に何かが鮮やかによみがえる、ということはなかった。
川の名前も、その日の会話も、帰りに何を食べたかも思い出せない。
ただ、そこに透花がいた、という事実だけが静かにある。
私はそのことに、少し戸惑った。
思い出はあるはずだった。
少なくとも、もっと何か一緒に戻ってくると思っていた。
笑い声とか、風の冷たさとか、シャッターを押したときの気分とか。
そういう細かいものが、写真には貼りついているものだと思っていた。
けれど実際には、写真はただの写真だった。
透花が笑っている。
それはわかる。
でも、その笑顔の手触りまでは届かない。
私は二枚目を手に取った。
室内だった。
どこかの喫茶店で、透花がカップを持っている。
窓際の席で、光が横から差していた。
テーブルの端にショートケーキの皿が少しだけ写っている。
私は息を止めた。
ショートケーキ。
白いクリーム。
いちご。
銀色のフォーク。
それだけで、あの記憶の断片が少しだけ動いた。
冷蔵庫の前ではなく、もっと前の時間。
透花がケーキを選ぶとき、ほんの少し迷う顔。
そのあとで、結局いつものものを選ぶこと。
でも、そこまでだった。
それ以上は続かない。
扉の向こうに何かある気がするのに、開かない。
私は写真を裏返した。
日付が書いてあった。
四年前。
思っていたより近くて、思っていたより遠かった。
残りの写真も見た。
駅のホーム。
夜の公園。
コンビニの前。
どれも透花がいて、どれも私がいたはずの時間だった。
けれど、写真の枚数だけ思い出が戻るわけではなかった。
むしろ逆だった。
写っているのに届かないことのほうが、はっきりした。
私は写真を机に並べたまま、しばらく動かなかった。
もし今、あの店で記憶を売ったら。
この写真を見ても、私は同じように透花だとわかるのだろうか。
それとも、ただ名前だけを知っている他人みたいになるのだろうか。
店主は言っていた。
誰なのかは理解できる。
でも、過去の実感は伴わない。
今の私は、まだ売っていない。
それなのに、もう少しだけその状態に近づいている気がした。
時間のせいなのか。
それとも、もともと思い出というものがそういうものなのか。
わからなかった。
スマートフォンが震えた。
母からだった。
「写真、あんたの部屋にあった箱に入ってたよ。いらなかったら捨てていいから」
私はその文面を見て、少しだけ腹が立った。
捨てていいから、で済むものではない。
少なくとも、私にとっては。
けれど、そう思ったあとで、すぐに別の考えが浮かんだ。
もし本当に捨ててもいいものなら。
もし写真も記憶も、いつか同じように処分されるだけのものなら。
私は何をそんなに守ろうとしているんだろう。
返事はしなかった。
代わりに、写真を一枚ずつ封筒へ戻した。
喫茶店の写真だけ、少し迷ってから最後に入れた。
翌日の帰り道、私はまたあの店の前に立っていた。
もう自分でも、来すぎだと思った。
けれど、来る理由は毎回少しずつ違っていた。
今日は、写真のことを聞きたかった。
扉を開ける。
ベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主はカウンターの奥にいた。
ほかに客はいない。
「こんばんは」
「こんばんは」
私は封筒を鞄から出した。
「少し、見てもらってもいいですか」
店主は封筒を見て、それから私を見た。
「査定品ではなくても?」
「たぶん」
「かまいません」
奥の部屋に通される。
机の上に封筒を置いて、中から写真を二枚だけ出した。
川沿いの写真と、喫茶店の写真だった。
店主は手に取らなかった。
ただ、机の上の写真を見た。
「この人です」
私は言った。
「売ろうとしている記憶の相手」
「ええ」
「写真を見ると、少しは思い出します。でも、全部じゃない」
店主は黙って聞いていた。
「売ったあとも、こういうふうに何か引っかかるんでしょうか」
「引っかかりは残ることがあります」
「でも、戻らない」
「はい」
私は喫茶店の写真を見た。
ショートケーキの皿が、やけに小さく写っていた。
「今でも、もう半分くらい写真みたいなんです」
気づけば、そう言っていた。
「透花のことを思い出しても、動いてる感じがしない。
場面じゃなくて、切り取られたものを見てるみたいで」
店主は少しだけ目を伏せた。
「時間が経った記憶には、そういうことがあります」
「じゃあ、売るのと何が違うんですか」
少しだけ、声が強くなった。
「薄れていくのと、なくすのと」
店主はすぐには答えなかった。
「薄れていく記憶には、偶然戻る余地があります」
私は黙った。
「匂い、音、季節、写真。そういうものをきっかけに、思いがけず輪郭を取り戻すことがある」
「でも、売ったら」
「その余地は、なくなります」
私は写真から目を離せなかった。
川沿いの透花は、ずっと笑っていた。
喫茶店の透花は、カップを持ったままこちらを見ていない。
「……じゃあ、まだ残ってるんですね」
「ええ」
「ちゃんと」
「はい」
その答えを聞いて、安心したのか、余計につらくなったのか、自分でもわからなかった。
残っているなら、苦しい。
でも、残っていないのだとしたら、それはそれで怖い。
「写真は」
私は言った。
「売ったあと、持っていても意味がありますか」
「確認のためには」
「確認」
「その人がいた、という事実を知るためです」
私は少し笑った。
「事実だけ残るんですね」
「そういう形になります」
私は写真を封筒へ戻した。
紙の擦れる音が、やけに乾いて聞こえた。
「今日は、売りません」
「ええ」
「でも、前より少しだけ、わかった気がします」
「何がですか」
私は封筒の端をそろえながら答えた。
「売るって、忘れることじゃないんですね」
店主は黙っていた。
「戻れなくすることなんだと思います」
店主は静かにうなずいた。
「そう考える方もいます」
私は立ち上がった。
写真の入った封筒は、来たときより少しだけ重く感じた。
店を出ると、夜の空気はまだ冷たかった。
けれど、胸の奥にあった曖昧なものは、前より少しだけ形を持っていた。
透花の記憶は、もう鮮やかではない。
写真みたいに、ところどころ静止している。
それでも、まだ完全には失われていない。
失われていないから、苦しい。
失われていないから、迷える。
たぶん今の私は、その途中にいるのだと思った。




