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第5話 少しの余裕

 四十万二千円という数字は、思っていたより長く残った。


 翌日になっても、その次の日になっても、ふとした拍子に頭に浮かんだ。

 会議の途中、昼休みにコンビニで弁当を選んでいるとき、終電に近い電車で吊り革につかまっているとき。

 数字そのものに意味があるわけじゃない。

 それでも、一度値段のついたものは、ただの思い出ではいられなくなるらしかった。


 四十万二千円。


 口に出さずに頭の中で繰り返すと、貯金残高や家賃みたいに現実的な響きがあった。

 それが自分の記憶についた値段だと思うと、少し可笑しくて、少し気味が悪かった。


 店主は言っていた。

 新しい家具、家電、短い旅行、少しの余裕。


 少しの余裕。


 その言葉だけが、なぜか残っていた。


 私は余裕のない生活をしているわけではなかった。

 家賃を払って、食費を出して、たまに友人と飲みに行くくらいの金はある。

 けれど、何かを失くしても困らないほど余っているわけでもない。

 洗濯機が壊れたら少し困るし、急な出費が続けば気持ちが荒む。

 そういう程度の生活だった。


 だから、四十万二千円という額は、現実として十分大きかった。


 もし手に入ったら。

 そう考えない日はなかった。


 古くなったマットレスを買い替えられる。

 動きの鈍いノートパソコンも新しくできるかもしれない。

 少しだけ広い部屋に引っ越すための足しにもなる。

 あるいは、何も買わずに口座に置いておくだけでも、たぶん今より安心できる。


 でも、そのたびに思い出す。

 その金で消えるのは、透花のことだ。


 正確には、透花にまつわる記憶だ。

 最後に会った日。

 雨の匂い。

 白い箱。

 ショートケーキ。

 冷蔵庫の前に立っていた時間。


 私はそれらを、何度も頭の中で並べ直した。

 四十万二千円と釣り合うのか、確かめるみたいに。


 もちろん、答えは出なかった。


 ある夜、会社の帰りに家電量販店へ入った。

 買うつもりがあったわけではない。

 駅前の明るさに引かれて、そのまま入っただけだった。


 炊飯器、掃除機、電気ケトル、ドライヤー。

 白い値札がどれも整然と並んでいる。

 私はそのあいだを歩きながら、ぼんやり考えた。


 四十万二千円あれば、この棚のものをいくつ買えるだろう。

 生活はどれくらいましになるだろう。


 少し立ち止まって見ていたのは、コードレス掃除機だった。

 今使っているものは吸いが悪く、音ばかり大きい。

 買い替えたいと思いながら、後回しにしていた。


「お探しですか?」


 店員に声をかけられて、私は少し驚いた。


「あ、いえ」


「こちら、今月中なら値引きもできますので」


 私は曖昧に笑って、その場を離れた。


 値段を見る。

 三万八千円。

 買えない額ではない。

 でも、すぐには手が出ない額でもあった。


 そのとき、不意に思った。


 透花の記憶を売れば、こういう迷いは減るのかもしれない。


 掃除機の前で立ち止まって、買うかどうか悩む時間。

 口座残高を見て、今月はやめるかと考える時間。

 そういう小さなためらいが、少し減る。


 それはたしかに、余裕と呼べるのかもしれなかった。


 店を出ると、夜風が少しぬるかった。

 春が近いのかもしれないと思ったが、まだコートは脱げなかった。


 駅までの道を歩きながら、私は考えた。


 もう会うことのない相手の記憶を売るのは、生きている誰かの記憶を売るのとは違うのだろうか。


 新しく傷つくことはない。

 思い出が増えることもない。

 時間だけが過ぎていく。


 だったら、売ってしまってもいいのかもしれない。


 そう思ったのに、次の瞬間には、ひどく浅ましいことを考えている気がした。


 透花はもう何も言わない。

 言えない。

 その沈黙に値段をつけてもらおうとしている。


 それが急に、後ろめたかった。


 週末、私はまた店の前まで行った。


 入るつもりは、半分しかなかった。

 ただ、前を通るだけでもいいと思っていた。

 けれど、扉の前まで来ると、ベルの音を思い出した。

 木の匂いと、コーヒーの匂いも。


 私は少し迷ってから、扉を開けた。


 ベルが鳴る。


「いらっしゃいませ」


 店主は、やはりいつも通りそこにいた。


「……こんにちは」


「こんにちは」


 店の中には客がいなかった。

 窓の外の光だけが、静かに床へ落ちていた。


「今日は」


 私は言いかけて、少し止まった。


 売るつもりで来たのか。

 話すつもりで来たのか。

 自分でも、まだはっきりしなかった。


「少し、聞きたいことがあって」


 店主はうなずいた。


「どうぞ」


「売るかどうか決める前に、確認したいことがあります」


「はい」


 私はコートを脱がないまま立っていた。


「亡くなった人の記憶でも、同じように消えるんですか」


 店主は静かに答えた。


「ええ」


「亡くなられた方の記憶を売る方は、少なくありません」


 私は少しだけ目を上げた。


「……そうなんですか」


「ですが、その方々は皆、同じ質問をされます」


「同じ質問」


「写真を見ても思い出せるのか。

 名前を聞けば何か残るのか。

 なくしたあと、本当にその人が遠くなってしまうのか、と」


 私は黙った。


 自分だけがそんなことを考えているのではないと知って、少しだけ救われた。

 同時に、それがありふれていることのほうが、かえって怖かった。


「写真を見ても?」


「誰なのかは理解できます」


「でも、思い出せない」


「はい。過去の実感は伴いません」


 私は喉の奥が少し乾くのを感じた。


「じゃあ、写真の中で笑っていても」


「そのときの空気や感情までは戻りません」


「……そうですか」


 想像してみる。

 写真の中の透花を見る。

 名前も、亡くなったことも知っている。

 でも、その人と自分のあいだに何があったのかだけが、きれいに抜け落ちている。


 それは救いというより、欠損に近い気がした。


「ただ」


 店主が言った。


「輪郭だけ残ることはあります」


「輪郭」


「大切だった、という感覚だけが残る場合があります」


 私は黙った。


 大切だった、という感覚だけが残る。

 それは慰めになるのか、それとも余計につらいのか、私にはわからなかった。


「……もう会うことはないんです」


 気づけば、そう言っていた。


「ええ」


「それでも、なくしたら、本当にいなくなる気がして」


 店主は何も言わなかった。


 私は少し笑った。


「とっくにいないのに、おかしいですよね」


「そうでしょうか」


 その返し方が、この店らしかった。


 私はようやくコートの前をゆるめた。


「今日は、売りに来たわけじゃないです」


「ええ」


「たぶん、まだその前です」


 店主は静かにうなずいた。


「かしこまりました」


 私は少しだけ息を吐いた。

 それだけで、来てよかった気がした。


「また、来ます」


「お待ちしています」


 店を出ると、外はもう夕方に傾いていた。

 空は白く、風はまだ冷たい。


 駅へ向かって歩きながら、私は考えた。


 四十万二千円で買えるものは、たしかに多い。

 掃除機も、マットレスも、少しの安心も買えるだろう。


 でも、透花の記憶がなくなったあとの空白は、たぶん何でも埋められない。


 少しの余裕と、ひとつの欠損。

 天秤にかけるには、まだ形が違いすぎた。


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