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第4話 四十万二千円

 三度目に店を訪れたのは、そのさらに五日後だった。


 自分でも、少し早いと思った。

 もう少し間を空けるつもりでいたのに、気づけば仕事帰りに駅を降りていた。


 店の扉を開ける。

 ベルの音は、前よりも耳になじんでいた。


「いらっしゃいませ」


 店主はいつも通り、カウンターの内側にいた。

 窓際の席には、今日は若い男がひとり座っていた。

 文庫本を開いているが、ページはしばらく動いていないように見えた。


「……こんばんは」


「こんばんは」


 店主は私の顔を見ると、それ以上は何も言わなかった。

 来る理由がわかっているような顔だった。


「今日は」


 私はコートの前を押さえたまま言った。


「額を聞こうと思って」


 店主は静かにうなずいた。


「では、奥へ」


 もう迷わず、私はそのあとをついていった。


 四畳半の部屋は、相変わらず何もなかった。

 机と椅子だけ。

 それなのに、ここへ来るたびに何かを置いていく気がした。


 向かい合って座る。


「今日は、査定額を」


「はい」


「その前に、少しだけよろしいですか」


 私は少しだけ身構えた。


「何ですか」


「前回、思い出したことがあるとおっしゃっていました」


 私は瞬きをした。

 ショートケーキのことだ。


「……はい」


「それも、査定に含まれます」


 私は小さく息をついた。


「そうですか」


 それを聞いて安心したのか、逆に落ち着かなくなったのか、自分でもわからなかった。


「では」


 店主は私を見た。


「現時点での査定額をお伝えします」


 私はうなずこうとして、少し遅れた。


 聞きたかったはずだった。

 そのために来た。

 なのに、いざその瞬間になると、聞いたあとには戻れない気がした。


「……お願いします」


 店主は一拍置いた。


「あなたの記憶の査定額は、四十万二千円です」


 私は黙った。


 四十万。

 その数字だけが、先に頭に残った。

 二千円の端数より、四十という区切りのほうが妙に重かった。


「……そんなにするんですね」


「ええ」


 私は机の木目を見たまま、もう一度その額を頭の中でなぞった。


 四十万二千円。


 高いのか安いのか、やっぱりまだわからない。

 でも、前より少しだけ現実味があった。

 数字が、私の中の何かに触れてくる感じがした。


「売れますか、今なら」


 自分でも驚くほど、平坦な声だった。


「ええ」


「今日ここで決めれば?」


「可能です」


 私は指先を組んだ。


「現金で?」


「振込も可能です」


 そんなところだけ普通なんだ、と思って、少しだけ可笑しかった。

 でも笑えなかった。


「……売ったら、透花のことを思い出せなくなる」


「ええ」


「最後に会った日も」


「はい」


「ケーキも、コンビニも、ショートケーキを選んだことも」


「忘れます」


 私は目を伏せた。


 四十万二千円。

 その額で消えるものを、頭の中で並べてみる。

 改札の横に立つ透花。

 ベージュのコート。

 白い箱。

 雨の匂い。

 冷蔵庫の前に立っていた時間。

 いちごのショートケーキ。


 どれも、ひとつひとつは小さい。

 でも、それがなくなったら、透花という人のことを、私はどこまで覚えていられるんだろう。


「輪郭だけ残ることもあるんですよね」


「ええ」


「それって、救いですか」


 店主は少しだけ黙った。


「そう思う方もいます」


「店主さんは?」


「私の考えは、査定には含まれません」


 私は少しだけ笑った。


「ずるいですね」


「そうかもしれません」


 そのやり取りで、少しだけ息がしやすくなった。


「四十万二千円で」


 私は言った。


「何が買えるんでしょうね」


「いろいろ買えます」


「たとえば」


「新しい家具、家電、短い旅行、少しの余裕」


 少しの余裕。

 その言い方が、妙に現実的だった。


「余裕がほしくて、来たわけじゃないんですけどね」


「ええ」


「忘れたくて来たんです」


「はい」


「でも、額になると急に、売るって感じがしますね」


「そういうものです」


 私は椅子にもたれた。


 忘れたい、と思っていたはずだった。

 透花のことを思い出すたびに、少しだけ痛むから。

 もう終わったことなのに、まだ終わっていないみたいだから。


 でも本当に消したいのは、痛みだけだったのかもしれない。

 思い出そのものではなくて。


「……痛いまま持ってるほうが、ましなこともあるんですね」


 気づけば、そう言っていた。


 店主はうなずきもしなかった。

 否定もしなかった。


「手放す理由は、人それぞれです」


「持っておく理由も?」


「ええ」


 私はしばらく黙っていた。


 四十万二千円。

 その額は、たぶん悪くない。

 むしろ高いほうなんだろう。

 でも、高いから売る、というものでもない気がした。


「もし売らなかったら」


「はい」


「この査定額は、変わりますか」


「変わることがあります」


「上がることも」


「ええ」


「下がることも」


「あります」


「どうして」


「記憶は、同じではいられないからです」


 私はその言葉を、少しのあいだ考えた。


 たしかにそうだった。

 思い出すたびに、少しずつ形が変わる。

 薄れるところもあれば、逆にはっきりするところもある。


「じゃあ、今がいちばん高いとは限らない」


「ええ」


「いちばん安いとも限らない」


「その通りです」


 私は息を吐いた。


 決め手になるようで、ならない答えだった。

 でも、この店らしいとも思った。


「……今日は、売りません」


 言葉は、思ったよりすんなり出た。


 店主は静かにうなずいた。


「かしこまりました」


「たぶん、まだ無理です」


「ええ」


「数字になっても、決められませんでした」


「そうですか」


 その言い方は、少しだけやさしかった。


 私は立ち上がった。

 今日は、椅子の音が前より軽く聞こえた。


 扉の前で、ふと足を止める。


「また来てもいいですか」


「もちろんです」


「売るためじゃなくても」


「かまいません」


 私はうなずいた。


 部屋を出ると、喫茶店の空気が少しあたたかく感じた。

 窓際の男は、まだ同じページを開いていた。


 会計を済ませて、外へ出る。

 夜風は冷たかったが、雨はなかった。


 駅まで歩きながら、私は四十万二千円という数字を何度か頭の中で繰り返した。


 不思議と、もうさっきほどの重さはなかった。


 その代わりに浮かんだのは、透花がショートケーキを選ぶとき、少しだけ迷った顔だった。


 そんな小さなことに値段がつくのなら、まだ手放さなくていい。


 そう思えた。


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