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第3話 輪郭の前

 次に店を訪れたのは、一週間後だった。


 雨は降っていなかった。

 けれど空気は冷えていて、駅から店まで歩くあいだ、私はずっとコートのポケットに手を入れていた。


 扉を開けると、ベルが鳴る。

 あの日と同じように、店の中は静かだった。

 古い木とコーヒーの匂いがする。


「いらっしゃいませ」


 店主は前と同じ場所にいた。

 窓際の女はいない。カウンターの男もいなかった。

 昼と夜のあいだみたいな、半端な時間だった。


「……また来ました」


「ええ」


 店主はそれだけ言って、私を見た。


「続きを、でよろしいですか」


「はい」


 私はうなずいた。

 査定額のことは、口にしなかった。

 聞けば答えるのだろうと思ったけれど、まだその気にはなれなかった。


「では、奥へ」


 前と同じ扉を抜ける。

 四畳半ほどの部屋も、机も椅子も、何も変わっていなかった。

 変わっていないのに、前より狭く感じた。


 向かい合って座る。


「前回の続きからにしますか」


「……はい」


 私は息をついた。


「前に話したあと、少し思い出したことがあって」


「どんなことですか」


「別れたあとです」


 店主は何も言わない。

 私は机の木目を見ながら話し始めた。


「駅で別れたあと、私はすぐには帰りませんでした」


 あの夜の駅前が、少しずつ戻ってくる。

 人の流れ。車の音。湿った空気。


「透花が改札を入るのを見て、それからしばらく立ってました」


「声はかけなかった」


「かけられなかったです」


 追いかけるとか、引き止めるとか、そういうことが何もできなかった。

 足だけが、その場に残っていた。


「それで、帰る前にコンビニに寄りました」


「何を買いましたか」


「缶ビールと、水」


 言ってから、自分で少し変だと思った。

 そんなことまで覚えている。


「あと、レジの横にあったチョコも買いました」


「食べましたか」


「食べてないです」


「では、なぜ」


「わかりません」


 本当にわからなかった。

 甘いものでも食べれば少し落ち着くと思ったのかもしれない。

 でも結局、袋に入れたまま持ち帰って、そのまま捨てた気がする。


「家に帰ってからは」


「ケーキを冷蔵庫に入れました」


 言った瞬間、その場面が急にはっきりした。


 狭いキッチン。

 白い箱。

 冷蔵庫を開ける手。

 中に入れたあと、扉を閉めて、しばらくその前に立っていたこと。


「食べなかったんですか」


「その日は」


 私は少し笑った。


「誕生日用だったので」


「翌日は」


「食べました」


「ひとりで」


「はい」


 モンブランだったか、ショートケーキだったか。

 そこは曖昧なのに、フォークが紙皿に当たる音だけは覚えていた。


「おいしかったですか」


「……たぶん」


 店主は黙っていた。

 私は自分で話しながら、少しずつ変な気分になっていた。


「別れたことより、そういうことばかり出てくるんです」


「そういうこと、とは」


「冷蔵庫とか、コンビニとか、食べなかったケーキとか」


「はい」


「肝心なことじゃない気がして」


「肝心です」


 店主はすぐに言った。


「そういう細部に、手放せなさが残ります」


 私は顔を上げた。


「言葉そのものより?」


「ええ。言葉は整理されますが、細部は残ります」


 その言い方は、少しだけ腑に落ちた。

 別れの言葉は、何度も頭の中で繰り返した。

 だから形が整っている。

 でも、冷蔵庫の前に立っていた時間は、誰にも話していない。

 たぶん、自分にも。


「売ったら、それも消えるんですか」


「ええ」


「ケーキのことも」


「はい」


「コンビニも」


「ええ」


「冷蔵庫の前に立ってたことも」


「忘れます」


 私は指先で机の端をなぞった。


 忘れたいのは、そこじゃない。

 でも、そこまで消えるのだとしたら、何が残るんだろうと思った。


「前に、輪郭だけ残ることがあるって言ってましたよね」


「ええ」


「それって、自分でもわかるんですか」


「人によります」


「たとえば」


「何か大事なものをなくした気がする、という形で残ることがあります」


 私は小さく息をのんだ。


「それは……嫌ですね」


「そう思う方は多いです」


「でも、忘れたいから来るんですよね」


「ええ」


「矛盾してる」


「人はたいてい、そういうものです」


 店主の声は静かだった。

 慰めるようでも、突き放すようでもない。


 私はしばらく黙っていた。


 売るつもりで来たはずだった。

 少なくとも、売ることを考えていた。

 なのに、話せば話すほど、逆に迷いが増していく。


「……透花のことを、まだ好きなんでしょうか」


 気づけば、そう言っていた。


 店主は少しだけ目を伏せた。


「それは査定の対象外です」


「そうですか」


「ただ」


 私は顔を上げた。


「好きだった時間を、まだ失いたくないのかもしれません」


 私は返事をしなかった。


 その言葉は、少しだけ正確すぎた。


 透花本人に戻ってきてほしいのか。

 あの頃の自分を失いたくないのか。

 もう、その区別もついていない気がした。


「……今の話で、何か変わりましたか」


 私が訊くと、店主は少しだけ考えるように黙った。


「見えてくるものはあります」


「額も」


「ええ」


「聞けば、教えてくれますか」


「お望みなら」


 私は机を見た。


 聞きたい気持ちはあった。

 どれくらいの値がつくのか、知りたかった。

 知れば少しは決めやすくなる気もした。


 でも、数字になった瞬間に、何かが変わる気もした。


「……今日は、まだいいです」


 店主はうなずいた。


「かしこまりました」


「聞いたら、売るかどうか考えなきゃいけない気がするので」


「そういう方もいます」


 私は小さく息を吐いた。


「まだ、考えたくないです」


「ええ」


 その返事は、許されたみたいに聞こえた。


 立ち上がる。

 今日は前より、部屋が狭く感じなかった。


 扉の前で、ふと思い出す。


「そういえば」


「はい」


「透花、ショートケーキのほうを選んだ気がします」


 店主は何も言わない。


「いちごが好きだったので」


「そうですか」


「……今、思い出しました」


「ええ」


 それだけだった。

 でも、その小さなことを思い出しただけで、胸の奥が少しだけあたたかくなった。


 部屋を出る。

 喫茶店には、今日は客がひとりもいなかった。


 会計を済ませて外に出ると、空気はさらに冷えていた。

 雨の匂いはしない。

 代わりに、乾いた夜の匂いがした。


 駅までの道を歩きながら、私は透花がショートケーキを選んだときのことを考えた。


 たぶん、少し迷ってから決めた。

 いちごが好きなくせに、先にモンブランを見ていた気がする。

 そんなことまで思い出せそうで、でも、まだ輪郭の手前にあった。


 売るのは、まだ先でいい。


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