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第2話 最後に会った日

 店主は何も言わなかった。

 ただ、続きを待っている。


「……恋人の思い出です」


 言ってから、少し間があいた。

 店主はうなずいた。


「では、奥へ」


 立ち上がった店主のあとを、私は少し遅れて追った。

 カウンターの横を抜ける。さっき気になっていた扉が、すぐそこにあった。

 古い木の扉だった。近くで見ると、取っ手だけが妙に新しい。


 店主が扉を開ける。


「査定のあいだ、忘れかけていたことを思い出す方もいます」


「売らなくても、ですか」


「査定だけなら」


 私は扉の向こうを見た。

 四畳半ほどの小さな部屋だった。

 机がひとつと、椅子がふたつ。壁際に細い棚がある。窓はなかった。

 喫茶店の奥とは思えないほど、何もない部屋だった。


「どうぞ」


 私は中に入った。

 店主が後ろで扉を閉める。音は小さかったのに、それで店の気配が遠くなった。


 向かい合って座る。

 机の上には何もない。

 紙も、帳面も、録音機もなかった。


「話すだけでいいんですか」


「ええ」


「メモも取らないんですね」


「必要ありません」


 店主はそう言って、私を見た。


「査定したいのは、最後に会った日の記憶でよろしいですか」


「……はい」


「では、その日のことを、思い出せるところから」


 私はすぐには口を開けなかった。


 最後に会った日。そう思うだけで、喉の奥がつまった。


「三年前です」


 自分の声が、少し遠く聞こえた。


「十月二十三日で。透花の誕生日でした」


 名前を口にしただけで、胸の奥が少し痛んだ。

 店主は何も言わない。


「平日だったので、会うのは夜だけでした。向こうも仕事で、私も仕事で。だから、駅で待ち合わせて、食事をして、それで……」


 そこで言葉が止まった。


「それで?」


「それで、別れました」


 店主は表情を変えなかった。

 驚きもしないし、気の毒そうにも見えない。

 ただ、続きを待っている。


「喧嘩したわけじゃないんです」


 私は机を見たまま言った。


「少なくとも、そのときは。普通でした。たぶん」


 たぶん、という言葉が自分で引っかかった。

 普通だったはずなのに、終わった。今でもそこがわからない。


「待ち合わせは、駅前でした」


 話し始めると、少しずつ景色が戻ってきた。


「透花は先に来ていて。改札の横で立ってました。ベージュのコートを着ていて、マフラーは……」


 私は眉を寄せた。


「紺だったと思います」


「思います?」


「そこは、はっきりしないです」


「では、はっきりしていることから」


 静かな声だった。

 急かすでもなく、慰めるでもない。


「ケーキの箱を持ってました」


 言った瞬間、その白い箱が目の前に浮かんだ。

 小さくて、四角くて、細い金色の紐がかかっていた。


「私が買っていったんです。駅の中で」


 透花は甘いものが好きだった。

 ホールケーキなんて大げさだから、小さいのをふたつだけ買った。

 モンブランと、いちごのショートケーキ。

 どっちを食べるか、たぶん店に入ってから決めようと思っていた。


「何を食べたか、覚えていますか」


「イタリアンでした」


「何を?」


「……パスタ、だったと思います」


「透花さんは?」


「同じです。たぶん」


 店主は少しだけ首を振った。


「食事の内容は、値にあまり関わりません」


「じゃあ、何が」


「あなたの中に残っているものです」


 私は黙った。


 あなたの中に残っているもの。少し嫌な言い方だった。


「店を出たあとです」


 私は言った。


「そこは、よく覚えてます」


 そこから先のほうが、むしろ鮮明だった。


「雨が降りそうで、でもまだ降ってなくて。透花が、傘持ってくればよかったって言ってました」


 その声まで思い出せそうだった。

 少し笑うような言い方だった。


「駅まで送るつもりで、一緒に歩いて」


 私はそこで止まった。


 喉の奥が、急に狭くなる。


「……その途中で」


「はい」


「透花が、別れようって言いました」


 部屋は静かだった。

 自分の声だけが浮いて聞こえた。


「急に?」


「はい」


「理由は」


「覚えてます」


 今度は、はっきり言えた。


「私といると、ちゃんと好きでいようとしてしまうから、疲れたって」


 三年経っても、そこだけはまだ痛んだ。


「そのとき、あなたは何と」


「何も」


 私は答えた。


「たぶん、何も言えなかったです」


 本当は違うかもしれない。

 何か言ったのかもしれない。

 でも、思い出せるのは、何も言えなかった感覚だけだった。


「怒りませんでしたか」


「……怒るより先に、わからなかったんです」


 好きでいようとしてしまう。

 その言葉の意味が、その場ではうまく飲み込めなかった。


「透花は泣いてませんでした」


 それも、よく覚えていた。


「困ったみたいな顔をしてました。私を傷つけるってわかってる人の顔でした」


 私は息をついた。


「それで終わりです」


「終わり?」


「駅まで行って、じゃあって言って、別れました」


「追いかけなかった」


「はい」


「連絡は」


「そのあと、何度か」


 私は視線を落とした。


「でも、戻りませんでした」


 店主は黙っていた。

 責めるでもなく、励ますでもなく、ただそこにいる。


「……変なんです」


 気づけば、そう言っていた。


「何がですか」


「別れた日のことなのに、誕生日のことばかり覚えてる」


 ケーキの箱。

 ベージュのコート。

 駅前の灯り。

 雨の匂い。

 そういうものばかりが残っている。


「別れた言葉より、先に会ったときのことを思い出すんです」


「それは、変ではありません」


「そうですか」


「つらかったことより、その前のことが残る人もいます」


 私は少しだけ顔を上げた。


「その前?」


「まだ失っていなかったときのことです」


 その言い方は、少しだけ残酷だった。


 私は目を閉じた。

 改札の横に立つ透花が見える。

 白い箱を受け取って、ありがとうと笑う。

 そのあとに来る言葉を、あのときの私はまだ知らない。


「……査定って、もう始まってるんですか」


「ええ」


「今ので、どのくらいかわかるんですか」


「おおよそは」


「高いですか」


 店主は少しだけ考えるように黙った。


「高い部類です」


 私は笑いそうになった。

 何がおかしいのかわからないのに、少しだけ。


「高いんだ」


「ええ」


「そんなに大事だったのかな」


「大事でなければ、ここへは来ません」


 その通りだった。

 忘れたいだけなら、他にもやり方はあった。

 それでも消えなかったから、私はここにいる。


「査定額を聞きますか」


 私はすぐには答えなかった。


 聞いたら、少し現実になる気がした。

 この記憶に値段がつくことも。

 それを売るかどうか考えている自分も。


「……今日は、まだ」


「かまいません」


 店主はあっさり言った。


「査定額は、もう少し話を聞いてからでも出せます」


 私は息を吐いた。

 少しだけ、助かった気がした。


「じゃあ」


「はい」


「もう少しだけ、話します」


 店主はうなずいた。


「では、次に思い出したことを」


 私はしばらく黙っていた。


 思い出したことは、あった。

 別れ話のあとではなく、その前のことだった。


 店に入る前、透花が私の袖を引いた。

 ショーウィンドウの前で立ち止まって、これ似合うと思う、と笑った。

 何の店だったのかは思い出せない。

 けれど、ガラスに映った横顔だけは、妙にはっきりしていた。


 あのときには、もう決めていたんだろうか。


 それとも、あの瞬間だけは、本当に楽しかったんだろうか。


「……わからないんです」


 気づけば口にしていた。


「何が」


「あの日の透花が、どこまで本当だったのか」


 店主は少し黙った。


「本当だったからこそ、残っているのかもしれません」


 私は返事をしなかった。


 その言葉を信じたいのか、信じたくないのか、自分でもわからなかった。


 部屋の外で、かすかにベルの音がした。

 新しい客が来たのかもしれない。


 雨は、まだ降っているんだろうか。


「今日はここまでにしますか」


 店主が訊いた。


 私は少し考えて、うなずいた。


「……はい」


「おおよその査定額は見えてきました。次にいらしたとき、続きを聞かせてください」


「次も、来れば」


「ええ」


 私は立ち上がった。

 椅子が小さく鳴る。


 扉の前で、ふと振り返った。


「ひとつだけ」


「はい」


「売ったら、本当に思い出せなくなるんですか」


「ええ」


「きれいに?」


「きれいに、とは限りません」


 私は眉をひそめた。


「どういうことですか」


「輪郭だけ残ることがあります」


「輪郭」


「大事だった、という事実だけが残ることがあります。誰のことだったか、何があったかは消えても」


 私は何も言えなかった。


 それは忘れるより、ずっと怖い気がした。


「またお待ちしています」


 店主が言う。


 私はうなずいて、部屋を出た。


 喫茶店の席に戻ると、窓際の女はまだ本を読んでいた。

 カウンターの男も、まだ新聞を広げている。

 何も変わっていないように見えた。


 会計を済ませて外に出る。


 雨は少し弱くなっていた。

 夜の空気は冷えていて、私は無意識にコートの前を押さえた。


 駅へ向かって歩きながら、私は透花の顔を思い出そうとした。


 笑った顔は浮かぶ。

 困った顔も浮かぶ。

 けれど、別れを告げた瞬間の目だけが、どうしてもはっきりしなかった。


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