第1話 値段のないメニュー
十月二十三日。
恋人の誕生日だけは、三年経っても忘れられなかった。
朝から降っていた雨は、夕方になってもやまなかった。
会社を出ても、まっすぐ帰る気にはなれなかった。駅までの道を少し外れたところで、私は喫茶店に入った。雨宿りのつもりだった。
扉を押すと、小さなベルが鳴った。
店の中は静かで、古い木の匂いとコーヒーの匂いがした。
窓際には文庫本を読んでいる女がひとり、カウンターには新聞を広げた男がひとりいた。
どちらも顔を上げなかった。
席について、私はメニューを開いた。
その喫茶店のメニューには──
値段のない項目が、ひとつだけあった。
ブレンド。
アメリカン。
カフェオレ。
チーズケーキ。
固めのプリン。
あなたの思い出、買い取ります。
私はその一文をしばらく理解できなかった。
品書きの中に、それだけが文章だった。
しかも、こちらに向かって書かれている。
「お決まりですか」
顔を上げると、店主が立っていた。
「……これ」
メニューを少し持ち上げる。
店主は視線を落とし、すぐに言った。
「最後の一文ですね」
「こういうの、前からあるんですか」
「ええ」
「冗談で?」
「いいえ」
それだけだった。
笑いもしないし、言い添えもしない。
ただ否定だけが置かれて、私は返す言葉を失った。
「思い出を、買うんですか」
「ええ」
「どうやって」
「査定して、値をつけて、買い取ります」
古本の話でもするみたいな口調だった。
「売ったら、どうなるんです」
「なくなります」
「……忘れる?」
「ええ。あなた自身のものとしては」
私はメニューを閉じた。
閉じても、あの一文だけは頭の中に残ったままだった。
忘れたいことならある。
思い出したくないこともある。
けれど、忘れたくないものまで一緒に消えるのだとしたら、それは救いなんだろうか。
「査定だけなら無料です」
店主が言った。
「売るかどうかは、そのあとで決めていただけます」
「査定って、何をするんですか」
「少しお話を伺います」
「それだけで?」
「ある程度は」
「何がわかるんです」
「価値です」
短い答えだった。
私は窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
細い路地に面したガラスを、絶え間なく濡らしていた。
帰る理由も、帰らない理由も、どちらも同じくらい曖昧だった。
生きていれば、透花は二十九になっていた。
その事実を、私は朝からずっと考えないようにしていた。仕事をしているあいだはまだよかった。目の前の文字だけを追っていれば、余計なことを思い出さずに済む。けれど会社を出て、雨の中をひとりで歩き始めた途端、抑えていたものが少しずつ浮いてきた。
透花はコーヒーが好きだった。
味より香りが好きで、飲む前に必ずカップの湯気を吸い込んだ。そんなことを思い出したくなくて喫茶店なんか避けていたはずなのに、気づけば私はここに座っている。
「高い思い出と、安い思い出があるんですか」
「あります」
「基準は」
「長さではありません」
「じゃあ」
「手放しがたさです」
私は黙った。
その言葉は、思っていたよりまっすぐ胸に入ってきた。
手放しがたさ。
忘れたいことならある。
けれど、手放したくないものまで一緒に抱えているから、人は苦しいのかもしれない。
「買い戻すことは」
気づけば、そう訊いていた。
「できません」
「あとで返してほしいと思っても?」
「できません」
「どうして」
「一度売った思い出は、二度とあなたのものには戻らないからです」
その言い方には、妙な重みがあった。
決まりだから、という響きではなかった。
そうでなければならなかった、という感じがした。
「それでも売る人がいるんですか」
「います」
「どうして」
「忘れたいからです」
簡単な答えだった。
簡単すぎて、返す言葉がなかった。
店の奥で、小さな音がした。
私は顔を上げた。
カウンターのさらに奥、細い廊下の先に扉が見える。古い木の扉だった。店の空気に馴染んでいるのに、そこだけ少し暗い。
「何か」
店主の声で、私は視線を戻した。
「いえ」
気のせいかもしれない。
そう思ったが、あの扉の向こうに何かある気がした。
「今日はお帰りになっても構いません」
店主が言った。
「雨宿りだけでも」
逃げ道を用意されて、私はかえって落ち着かなかった。
帰ってもいい。
この店のことを、雨の夜の妙な出来事として終わらせることもできる。
けれど、帰ったところで待っているのは、透花のものがまだ残った部屋だけだ。
本も、マグカップも、読みかけの雑誌も、そのままになっている。
捨てるにはまだ生々しく、残しておくには痛い。
それなら、値段だけでも知ってみたいと思った。
私が抱えている記憶に、どれほどの値がつくのか。
知ったところで何かが軽くなるわけじゃない。
それでも、知りたかった。
「……ひとつだけ」
自分の声が少し掠れた。
「査定してもらいたい思い出があります」
店主は静かにうなずいた。
「承ります」
「でも、売るかどうかは決めてません」
「もちろんです」
柱時計がひとつ鳴った。
窓の外ではまだ雨が降っている。
私は唇を湿らせた。
名前を口にするまでに、少し時間がかかった。
「……恋人の思い出です」
店主は何も言わなかった。
ただ、続きを待っている。
「最後に会った日のことです」
言ってしまうと、それだけで喉の奥が少し痛んだ。
最後に会った日。
その言い方をすると、そこから先がないことまで一緒に確かになる。
「高いんですか」
聞くつもりはなかったのに、口から出ていた。
店主はすぐには答えなかった。
私の顔を見て、それから静かに言った。
「それは、高くなります」
私は息を止めた。
高いから何だというのだろう。
高ければ大事だった証明になるのか。
高ければ、失った痛みに意味がつくのか。
わからない。
ただ、その言葉だけが、冷えた指先にじわじわと染み込んでくるようだった。
店の奥で、また小さな音がした。
「では」
店主が言う。
「詳しくお聞かせください」
私は閉じたメニューの上に手を置いたまま、しばらく動けなかった。




