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あたりまえの夕日  作者: 半田南都


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第5話 見えない海


宴会のような夕食が終わり、泊まり客がそれぞれ部屋に戻ると、さっきまでの賑やかさが嘘のように静まった。


だが奈美たちはここからも忙しい。父は厨房へと引き上げ、明日の仕込みに取りかかり、奈美と母は下膳や皿洗い、片付けに追われる。


食器の触れ合う音や行き来する足音だけが残る中、さっきまでの笑い声はもう遠いもののように感じられた。


午後十時。ようやくその日の仕事が終わり、奈美は一人で厨房に立ってコーヒーを淹れた。


湯気の立つカップを手に取り、ほんの少しだけその場に立ち尽くす。


——ふと、さっきの広間の光景が頭をよぎった。


小さく息をつき、奈美は勝手口から外に出る。


仕事終わりにベンチに座り、熱いコーヒーを飲むのが、ここで働き始めてからの奈美の日課になっていた。


外に出ると、夜の空気は思ったよりひんやりしていた。


このあたりは街灯もほとんどなく、海岸に出ると夜は真っ暗になる。目の前には海が広がっているはずだったが、闇に溶けてその姿はほとんど見えない。

ただ、一定の間隔で打ち寄せる波の音だけが、そこに海があることを知らせていた。


奈美はベンチに腰を下ろし、見えない海を見つめた。


コーヒーを一口飲む。まだ少し熱い。


カップを見下ろしたまま、さっきの光景を思い浮かべる。


「……なんなんやろ、あの人」


最初は、正直あまりいい印象ではなかった。どこか軽くて、島のこともよく知らないまま来ているように見えたからだ。

それなのに、気がつけばその中に彼の姿が混ざっている。


「……別に」


小さく呟いて、もう一口飲む。苦い。


「……ようわからんな」


波の音が変わらず続いている。


「……もうええか」


そう言ってカップを持ち直す。明日も朝から仕事だ。

奈美はゆっくりと立ち上がった。





朝五時。眠い目を擦りながら奈美が厨房に行くと、母が一人で朝食の準備をしていた。


「お母さん、おはよう。あれ? お父さんは?」


「漁行ったわ。もう帰ってくるやろけど」


「え? 今日も行ったん?」


「そうやねん。やっぱりちょっと行ってくるわ、て言うてな」


少し呆れたように言う母に、奈美も肩をすくめる。


父は普段、夜中の二時頃から明け方にかけて船を出す。ゴールデンウイーク中は宿の仕事が忙しくなるため、昼間に仮眠も取りづらく、漁は控えると言っていたはずだった。だが昨日も結局出ていて、今日もやめておくと言いながら、また海へ出たらしい。


「性分やな」


「出えへんかったら余計に調子狂うんやろね」


そんなことを言い合っていると、外から話し声が聞こえてきた。


「あ、帰ってきたんかな……誰かと一緒みたいやわ」


知り合いの漁師と話しているのかと思い、勝手口を開けると、父と並んで歩いていたのは──健司だった。

二人とも大きな発泡スチロールの箱を抱えている。


「……え? 何で?」


奈美が驚いたように見ていると、父と目が合った。


「おお、奈美!」


軽く笑いながら近づいてくる。


「いやあ、船戻したらな、このお兄さんが歩いとってな。箱、重たかったから一つ持ってもろてん。助かったわ」


奈美ははっとして、健司の持っている箱に手を伸ばした。


「すみません、私が持ちます」


「あ、いいですよ。中まで入れます」


そう言って健司はそのまま厨房へと入っていく。


「あらまあ!」


母が振り返り、声を上げた。


「服、汚れてしもたんちゃう?」


「いえ、大丈夫です」


「えらい早い時間に……市場、行ってきはったん?」


「そうなんです。どんな感じなのかな、と思って」


「焼津とは比べもんにならんやろ?」


父がどこか楽しそうに言うと、健司は少しだけ笑って頷いた。


「そうですね。だいぶ違いますね。……なんか、人が近い感じがして、いいですね」


焼津の漁港は大きく、船も人も行き交う活気のある水産都市だ。

この小さな地元の漁港とはまったく比べものにならない。


「小さいとこやけど、新鮮さはこっちも負けへんで。今日もええのん獲れたしな」


ぴちぴちのメバルを手に、父は笑った。


「お兄さん、そこ座り。手伝ってもろたお礼や。刺身食べていき。朝食前の前菜や」


「何が前菜やの」


母が笑いながら突っ込んだ。


「いや、お忙しいのに……」


「ええってええって。奈美が俺の分も働くから」


「何でやの」


思わず奈美も突っ込みを入れ、皆で笑った。


漁師と言えば寡黙だったり、逆に豪快なイメージを思い浮かべるかもしれない。だが奈美の父は、そのどちらとも言えなかった。とにかく明るく、誰とでも気軽に話す。


それでも今日は、どこか様子が違って見えた。機嫌よく笑う父は、うきうきしているようにも映る。


健司が刺身を口に運ぶ横で、父は楽しそうに話している。


島を離れていたら、こんな父の姿を見ることもなかったのかもしれない──そんなことを思いながら、奈美はその光景を眺めていた。


今日も満室で、朝から忙しい日だった。健司が厨房をあとにすると、父は泊まり客の朝食の準備を進めていく。それでも健司との時間がよほど楽しかったのか、どこか機嫌はいいままだった。


「あの人、今日も泊まるやん? どっか行きはるんやろか」


気になっていることを悟られないように、奈美は手を動かしたままさらりと父に聞いた。


「どやろな。何も言うてへんかったわ」


「ふーん……」


ほんまに何しに来はったんやろ……別にええけど──

そう思ったのに、気がつけばまた同じことを考えていた。


朝食を終えた客の多くは一泊で、十時のチェックアウトが終わるころには、宿は静けさを取り戻していた。


午後からの客を迎えるため、奈美は客室の清掃に取りかかった。順に部屋を回り、健司の部屋の前で足を止める。


ノックをしようとして、ふと手が止まった。


「まだ寝てはるんかな……」


朝、少し寝ると言っていたのを思い出す。起こすのも気が引けて、奈美はそのまま階下へ降りた。


「ああ、あのお兄さんやったらさっき出掛けはったよ」


母の言葉に思わず顔を上げる。


「そうなんや。どこ行くて?」


「知らん。帰らはるお客さんの相手してたから、聞いてへんわ」


「ふーん」


それだけ返して、奈美はもう一度二階へ上がった。健司の部屋に入り、タオルを替え、新しいお茶を用意する。


片隅に、ボストンバッグがひとつ。

窓の外には、彼が褒めていた景色が広がっている。


しばらくそのまま立ち尽くし、やがて小さく息を吐いた。

ドアを静かに閉め、部屋をあとにした。


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