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あたりまえの夕日  作者: 半田南都


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第3話 何もないところ


その日の午後、チェックインにはまだ早い時間に、一人の青年が現れた。


「すみません。バスの時間が合わなくて早く着いてしまったんですけど、大丈夫ですか?」


二十代前半に見えるその青年は、白いシャツにジャケットを羽織り、折り目のついたズボン姿。手には小さなボストンバッグ。釣りをしに来たようには見えない。観光だろうか。少し長めの髪が潮風になびき、どこか都会の匂いを感じさせた。


「お部屋、もう用意できてますから大丈夫ですよ。さ、どうぞ」


奈美が笑顔で出迎えると、ほっとしたように表情を和らげ、靴を脱いで中へ入った。


そこへ母がやって来て、宿帳を差し出しながら声をかけた。


「バスで来はったんですか? 本数少ないから時間も合わせにくいですもんね」


「あ、はい。ちょうどいいのがなくて」


宿帳に書き込む青年を横目に、奈美はさりげなく名前に目をやった。

津村健司──住所は大阪。


大阪か──そんなイメージとは違うな、と奈美は感じた。


「こちらのお客さん、左の奥の部屋にご案内して」


母に言われ、奈美はその青年、津村健司とともに二階へ上がった。


「こちらのお部屋になります」


そう言って引き戸を開け、中へと案内した。


健司は部屋に入ると、まっすぐ窓際へ歩み寄った。

播磨灘の海が広がり、遠くの島影と水平線が重なって午後の光にきらめいている。


「うわー! きれいですねー!」


この言葉は聞き慣れている。海がきれいなのはわかっているし、否定する気はない。かといって「そうでしょう」と返すのも少し違う気がして、いつもここで返事に困る。結局、奈美は小さく微笑むだけにしていた。


「どうぞ」


お茶を用意してテーブルの上に置いたが、健司はまだ外を眺めていた。


奈美が食事の時間や場所を説明しようとした時、健司の方が先に口を開いた。


「ほんっと、何もないですねー」


外を見たまま、そう言った。


奈美はその言葉を聞いて、「何もなくて悪かったですねー」と心の中で呟いた。


何もないところなのは事実だし、彼に悪気がないのはわかっている。むしろ自然が多いという褒め言葉のつもりなのだろう。

奈美だって、ここが何もないところだと思っている。


それでも、どこか気持ちはすっきりしなかった。


その一瞬の感情が顔に出てしまったかもしれない。だが奈美はすぐに表情を戻し、食事の時間や風呂の場所、朝の支度についての説明を済ませると、


「何かあれば、下にいますので声をかけてください」


そう付け加え、軽く会釈をして部屋を出た。


「ちゃんと案内した?」


玄関で靴を揃えながら聞く母に、奈美はそっと近づき、小声で答えた。


「うん。でもな、なんかようわからん人やね、あの人」


母は手を止めて「ん?」という顔して奈美を見た。


「なんで?」


「だってな、部屋に入るなり鞄も置かんと外の景色ばっかり見とるんよ」


「ええやん。そういう人おるよ」


「それにな、『なーんもないとこですねー』て言うんよ」


「それ、ほんまのことやん。別に変とちゃうやんか」


クスクスと笑いながら言う母に、奈美はさらに一歩近づいて言った。


「そもそもな、まだ若いのに一人で何しに来たんやろ? 釣りしに来た感じでもないし」


当時、この辺りは目立った名所や洒落た店があるわけでもなく、観光地と呼ばれる場所ではなかった。釣りやドライブでもなければ、若い旅行者がわざわざこうした民宿を選ぶことはあまりない。


「この人、二泊しはるね。二、三日前やったかな、予約の電話。それまで満室やったけど、ちょうどキャンセル出たから」


「ふーん。二泊もするんや。ほんま何しに来たんやろね」


あまり客のことを詮索するのもよくないが、つい気になってしまう。すると、母が思い出したように言った。


「あれとちゃうかな?」


「え? あれって?」


「あれ、あれ。ほら」


ほら言われてもな……と思っていると、上を向いて考えていた母が、ぽん、と手を叩いた。


「記念館。保存館? 野島断層の」


「あー……」


野島断層は、あの大地震を引き起こした活断層の一つで、奈美の住む場所のすぐ近くにある。その断層をそのまま残した『北淡震災記念公園・野島断層保存館』が、今月初め、明石海峡大橋の開通と同じ時期にオープンしたばかりだった。


「そこに行こ思て来たんかもね」


奈美はまだ行ったことがないが、橋の開通もあって、そこは開館以来、連日多くの人が訪れている場所だった。民宿に泊まった客の中にも足を運んだ人はいるはずだが、そこだけを目的にこの民宿に泊まる人は奈美の知る限りいなかった。そう考えると、やはりどこか引っかかるものがあった。


「そうかなあ」


「ほら、例えば、地震に関心があって、実際に地面がどう動いたのか、自分の目で確かめたいと思たかもしれへんし。身なりもちゃんとしてたから、専門家とか防災の仕事してる人かもしれへんやん」


母はそう言うが、奈美はそうは思わなかった。もしあの地震に関心を持っているのなら、この辺りが大きな被害を受けたことくらい知っているはずだ。それなのに、この場所を「何もないところ」と言うのは無神経に思えた。


「んー……わからんな」


「ま、ええやん。いろんな理由で来る人もおるし、理由なく来る人もおるんやから」


「まあね」


「ほら、もうすぐ三時やから、そろそろお客さん来はるよ。動こ」


奈美は、どこかあの青年のことが気になりながらも、言われた通り客を迎える準備を始めた。


やがてチェックインの時間になると、宿には次々と客がやってきた。対応に追われていたが、ようやく一段落すると、奈美は厨房に戻り、夕食の準備を手伝っていた。


空になったビールケースを外に出そうと、勝手口から外に出ると、ちょうど前を健司が歩いていた。


ビールケースを抱えたまま足を止めると、健司もこちらに気づいて立ち止まる。


「あ、どうも」


軽く会釈されて、奈美も小さく頭を下げた。


「いいところですね」


そう言って、健司は海の方へ目をやる。


奈美は曖昧に頷いた。

少しの沈黙のあと、健司は腰に両手を当てて、気持ちよさそうに体を伸ばした。


「……こういうとこ、住んでみたいなあ」


その言葉を聞いた瞬間、奈美の中でまた何かが引っかかった。


──やっぱり違う。


震災のことに関心があって来たわけではなさそうだった。

この場所がどういう場所かも知らないまま、ただ景色だけを見て言っている。


軽いな、と奈美は思った。


この島──特にこの西海岸には、空き地や崩れたままの家がまだあちこちに残っている。

それを知っていれば、簡単にそんな言葉は出てこないはずだった。


それに、夜になれば辺りは驚くほど暗くなる。近くにコンビニも、お洒落な店もない。不便なことはいくらでもある。


そういうことを知らないまま「こういうところに住みたい」と言われることに、奈美はどこか距離を感じた。


「お食事、準備できたらお声かけしますね」


奈美はわずかに笑みを浮かべると、それだけ言って勝手口へ引き返した。


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