第2話 夢の橋
泊り客が朝食を終えて部屋に戻り、広間のテーブルを拭いていると、父の呼ぶ声がした。
「奈美、できたで。今のうちに食べときよ」
厨房の調理台には、三人分の朝ごはんが並んでいた。今朝獲れたばかりの生しらすの丼に、味噌汁。それに昨日炊いたカレイの煮付けもある。
「今日はちょっと豪勢やね」
「昼から忙しなるからな。しっかり食べとこ」
そう言いながら、父は立ったまま箸を動かしている。夜中から漁に出て、明け方に帰ってきて、そのまま厨房に立ち続けている。昼から忙しくなるどころか、ずっと働き詰めの人であった。
三人で食べていると、生しらすを見つめて奈美が小さく呟いた。
「おいしいのにな……」
それを聞いて、母は苦笑いした。
「ああ、あの娘さんやなぁ。まあ、若い子はこういうの苦手な人多いからな。釜揚げ出しても、半分残してはったわ」
「え? そうなん?」
奈美は思わず顔を上げた。
「昨日の晩ごはんも天ぷらは食べてはったけど、お刺身はほとんど彼氏さんが娘さんの分まで食べとったしな」
「え〜……そういうの苦手やったらなんで漁師宿に来たんやろ。しかも観光するとことかこの辺ないのになぁ」
母は少し考えるように視線を上げた。
「……あれちゃう? 橋やわ。車で来てはったから、海岸にドライブしに来たんちゃうかな」
すると、黙って聞いていた父が口を開いた。
「そやな。橋できてから、島にようけ人来るようになったしなぁ。うちも客増えてきとるわな」
橋。明石海峡大橋だ。
神戸と淡路島を結ぶ、世界有数の長大な吊り橋。一九九八年四月五日、その橋は開通した。
それまで船でしか渡れなかった海を、車がそのまま走って越える。それは、この島にとって大きな変化だった。
長く海に隔てられていた島と本土がつながったことで、島中が歓喜に沸いた。震災を経た暮らしの中で訪れたその出来事は、人々にとって確かな明るい兆しでもあった。
その橋ができてから、まだ一か月も経っていない。
それでも、この西海岸を訪れる人は確かに増えていた。フェリーに乗らなくても、そのまま車で来られるようになったからだ。日帰りで立ち寄る人の姿も、珍しくなくなってきていた。
「……橋ができて、本土が近くなったよね」
「ほんまやね」
奈美の言葉に、母は頷いた。
けれど奈美の心の中には、その先の言葉が残っていた。
近くなったはずなのに──
自分には、まだ遠く感じられた。
朝食を済ませると、奈美はすぐに二階へ上がり、客室の清掃や布団の用意に取りかかった。この日は満室のため、すべての部屋をきちんと確認しなければならない。
ひと通り終えて階段を降りたところで、厨房から声がした。
「すみませーん」
聞き覚えのある声だった。
「はーい」
返事をして厨房へ向かうと、勝手口の扉の前、積まれたビールケースの横に、祐介が立っていた。
「おう、奈美。元気か?」
「あ、ゆう君。帰っとったん?」
ゆう君──森本祐介は、同じ町の酒屋の息子だ。小さい頃はよく一緒に遊び、小学校から高校までずっと同じだった。高校卒業後に大阪の大学へ進学し、先月この島を離れたばかりだった。
すっきりと短い髪に、日に焼けた顔。昔から変わらない人懐っこい笑顔──見慣れていたはずなのに、今の奈美には少し違って見えてしまった。
「ゴールデンウイークやからな。里帰りには早い思たんやけど、橋もできたしな」
「そうなんや。でも、車持っとらんやんな? 高速バスで橋渡って来たん?」
「いや、フェリーで」
「ほな意味ないやんか」
奈美は思わず小さく吹き出した。
「いやいや、フェリーで橋の下くぐるねんで。下からあの橋見上げるだけでも価値あるやん?」
言いながら祐介も笑った。
その笑い声につられたのか、父が顔を出した。
「おお、祐介、帰ってたんか。酒持ってきてくれたんや。せっかくの里帰りやのに、手伝わされとんやな」
笑顔で声をかけながら、父は冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り出した。
「祐介、時間ええんやろ? 奈美とちょっと話してから帰りよ。久しぶりなんやから」
奈美に缶コーヒーを渡し、
「せわしなる前に今のうちに休憩しとき」
そう言い残して、父はまた奥へ戻っていった。
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
「外、行こか」
建物のすぐ前に置かれたベンチに腰をかける。目の前には、すぐ海が広がっていた。奈美にとっては特別でも何でもない、あたりまえの風景だ。
祐介との会話が始まる前に、奈美はふと思った。仲のよかった同級生のほとんどは島を離れ、休みをもらっても会う相手もいない。気づけば、一人で過ごす時間が増えていた。
そんな自分を気にして、父は祐介との時間を作ってくれたのだろう、と。
けれど父の思いとは別に、今の奈美にとっては、自分が憧れていた場所にいる祐介と会うことに、どこか少し気が重かった。
だが、そんな気持ちは表に出さないようにして、奈美はいつもどおりに振る舞った。
「久美子と会うとるん?」
「いや、あんまり会うてへんわ。俺、今奈良におるし」
「そうなんや。二人とも大阪の大学行っとる思てたわ」
「久美子は大阪の短大な。俺も大阪の大学やけど、学部が奈良のキャンパスにあるんや」
「そうなんや」
祐介には、榎本久美子という彼女がいる。高校二年の頃から付き合っていて、二人とも大阪の学校に進学したため、奈美はてっきり、しょっちゅう会っているものだと思っていた。
「ほんまはこの休み、一緒に帰省することになっとったんやけど、サークルの合宿と重なったとかで、あかんようになったんや」
祐介は寂しいというより、少しばつの悪そうな顔で言った。
「そうなんや」
さっきから「そうなんや」しか言葉が出てこない。心の中で、どこか他人事のように受け取っているのかもしれなかった。
久美子は別の町の出身で、高校で奈美と同じクラスになった。小柄で目が大きく、ぱっと目を引く可愛さで、すぐに男子の間で人気になった。
そんな中で、久美子は祐介に好意を持ち、彼女の方から告白して交際が始まった。奈美はその少し前に、久美子から祐介との関係を聞かれている。家が近く、一緒に通学していたこともあり、付き合っているのではないかと思われたらしい。奈美ははっきりと否定したが、誤解を招かないためにも、二人が交際を始めてからは少しだけ祐介と距離を置くようになった。
それでも祐介とは家が近いこともあり、地元で顔を合わせれば、以前と変わらず普通に言葉を交わしていた。
祐介は特別派手なタイプではなく、いわゆる目立つイケメンというわけでもない。ただ昔から人懐っこく、どこか親しみやすい雰囲気があり、男女問わず好かれるタイプだった。
一方で奈美は、小さい頃から祐介と一緒に過ごしてきたが、彼に恋心を抱いたことはなかった。民宿に出入りする大人たちに囲まれて育ったせいか、同年代の男子はどこか子どもっぽく見えてしまい、誰かを特別に思うこともほとんどなかった。
そんな奈美も、高校二年の時、ひとつ上の先輩に告白されて付き合ったことがあったが、一年後、彼の卒業と同時に自然と終わった。それ以来、特に誰かと深く関わることもないまま過ごしている。
奈美は同世代の中では背が高く、すっきりとした顔立ちのせいか、昔から少し大人びて見られることが多かった。
明るく、人当たりも悪くない。けれど、自分の感情なのに、どこか少し離れた場所から眺めてしまうようなところがあった。
そして今、目の前にいる祐介に対しても、どこかで「もう自分とは違う場所にいる人間だ」と感じていた。
「そろそろ帰るわ」
変わらない笑顔を向けて立ち上がる祐介に、奈美も笑顔を返す。
「ほなまたな。久美子によろしく言うといて」
「また明日も配達に来るけどな。あ、夕方またこの辺来るわ」
「何しに?」
奈美は何気なく聞き返した。
「夕日見に」
「え?」
思わず、怪訝そうに眉をひそめた。
「何で?」
「ここのん、好きやねん。おるあいだは見とこう思て」
「いや、だから何でやの。わざわざ見にこんでも、向こうで見れるやん」
奈美は少し呆れたように言った。
「いや、あっちの小さいねん」
「そう見えるだけで一緒やん。変わらんやろ」
奈美はそう言いながら、視線を海へ向けた。
「いや、奈美も向こう行ったらわかるって」
その言葉に、少しだけ気持ちが止まった。
「……ほなまたな」
奈美はそう言って、会話を終わらせた。
「うん。またな」
祐介は、何も気にしていない様子だった。
祐介の背中を見送りながら、奈美は小さく手を振る。
波の音だけが、しばらくその場に残っていた。




