第22話 あたりまえの夕日
二〇〇三年四月。
「よいしょっ、と」
空になったビールケースを勝手口の外へ運び出して積み上げると、奈美はふと顔を上げた。
夜七時前。
日が沈んだばかりの空に夕焼けが残り、海の向こうまで淡い赤が広がっている。
「きれいやな……」
口にしてから少し笑った。
十代の頃の自分なら、夕日を見てこんなことは言わなかっただろう。見慣れたはずのこの景色に心を動かされることなんてなかったから。
「ちょっとだけ、休もっと」
奈美は海の見えるベンチに腰を下ろした。
波の音が静かに聞こえている。
──あれから何年?
指を折って数える。
──五年、か。
健司とは、あれから会っていない。
それでも、このベンチに座り海を眺めていると、あの日のことを思い出してしまう。
あの頃は、自分だけが島に取り残されているような気がしていた。
そう思い込んでいた。
そんな自分に気づくきっかけをくれたのが健司だった。
あの夜、一緒に見た、見えない橋のイルミネーション。
あの時、奈美は初めてこの島から先の景色を見たような気がした。
健司と出会っていなかったら、今の自分はどうなっていただろうか。
きっと今も、島を出たいと思いながら出られない自分をかわいそうに思っていただろう。
そして、本心を誰にも言わないまま人を羨んでいたかもしれない。
健司にとって奈美との出会いは、人生の中のほんの些細な出来事だったのかもしれない。
また必ず来ると言ってくれたけれど、一年後に電話があったきりそれから連絡はなかった。
それでも、いい。
あの時間が自分にとって大きな意味を持っていたことは、変わらない。
あの時間があったから前を向くことができた。
それに、こうして夕日を見て、素直に「きれいやな」と思えるようになった。
そして、人を好きになることも、怖がらずにできるようになった。
それだけで、十分だ──
「奈美」
背後から声がした。
「あ、ゆう君。びっくりした」
「仕事は? こんなとこで黄昏ててええんか?」
「今日はお客さん少ないしな。ちょっと休憩。ゆう君は仕事帰り?」
「おう。夕日きれいやから、そこに車停めて来てしもた」
「……とか言いながら、私に会いに来たんとちゃうん?」
奈美がからかうように言うと、祐介は一瞬言葉に詰まった。
「え? いや……どやろな」
照れたように笑って、はぐらかすように奈美の隣へ腰を下ろした。
一年前、祐介は島に戻ってきた。
大阪の大学で水産について学び、卒業するとそのまま地元へ帰ってきた。今は漁業組合で働いている。
大学時代に付き合っていた彼女とは、卒業前に別れたらしい。それ以来、特に付き合っている人はいないようだった。
島に戻ってからは、同級生たちと奈美も一緒に食事や飲みに行くことが増えた。
そのうち、奈美とは週に一度くらい二人で食事をしたりどこかへ出かけたりするようになった。
播磨灘に沈む夕日を眺めていた奈美は、ふと視線を移した。
左手に続く海岸の先、小高い丘の上に白い風車が一基立っている。
五年前にはなかった景色だ。
昨年、野島断層のある記念公園に建てられた風車だ。いつの間にかこの景色の中に馴染んでいる。
「髪な……」
「え?」
「短いのもええな」
「ああ。ふふ」
「長いのもよかったけどな」
「私は何でも似合うねん!」
得意げに言う奈美を見て祐介は小さく吹き出した。
奈美は肩のあたりで揃えた髪に指先で軽く触れた。
「……これな、希美ちゃんに切ってもろてん」
「希美ちゃん?」
「中学の同級生やった村田希美ちゃん。高校卒業して大阪の美容学校行っててん」
「ああ、はいはい」
「そのまま大阪で働いてたから、もう島には戻ってこんのやろなって思っててんけどな」
「戻ってきたんや」
「うん。今年な。今は洲本の美容院で働いてる」
「へえ」
奈美はもう一度、遠くの風車に目を向けた。
高校を卒業すると、ほとんどの同級生が島を出ていき自分だけが取り残されたような気がしていた。
でも、そうじゃなかった。
島を出ても、戻ってくる人がいる。
祐介のように、戻る場所を決めて出ていく人もいる。
希美のように、外で暮らしたあとまた島へ帰ってくる人もいる。
海も、夕日も、ここにある。
「奈美」
「ん?」
「親父さんが言うてたで」
「何を?」
「震災のあともだいぶ落ち着いてきたし、宿も人を雇う余裕が出てきたって」
「へぇ……」
「だからな、奈美がやりたいことあるんやったら、そろそろ好きにさせてやろかなって」
奈美は黙って海を見た。
「島から出てもええと思ってるみたいやで」
「……そっか」
「どうするん?」
「どうしよかな」
しばらく沈黙が続いた。
祐介の視線を感じながら奈美は少しだけ顔を上げた。
「……おるよ。ここに」
「え?」
「どこも行かへんよ。だって──」
海をまっすぐ見たまま口にした。
「この夕日、見られんようになるのは嫌やからな」
祐介はしばらく何も言わなかった。
奈美がそっと祐介を見ると、ほっとした表情に変わっていくのがわかった。
その顔を見て奈美も少し嬉しくなった。
島を出ることだけが、前に進むことじゃないと知ったから──
「なあ、奈美」
「ん?」
「……そろそろ俺たち、付き合わへん?」
奈美は少しだけ驚いた顔で祐介を見て、そして小さく笑った。
「もう付き合ってると思ってたわ!」
奈美の言葉に祐介は慌てて手を横に振った。
「え? いや、だって俺ら、まだなんもしてへん──」
「なんも? なんもって、何のこと?」
ニヤニヤして祐介を見る。
「あ、いや……ごめん。なんもない。……え? あ、じゃあ、付き合ってることでええんか? ええねんな?」
「……ええよ」
奈美が柔らかく微笑むと祐介は嬉しそうに笑った。
震災があって橋ができて、島の景色も変わっていった。
五年前にはなかった風車が、今は海を見下ろすように立っている。
人も景色も少しずつ変わっていく。
それでも、海は変わらない。
いつもと同じように、夕日が海の向こうへ沈んでいく。
二人は、そんなあたりまえの景色をしばらく眺めていた。




