第20話 これでいい
──返事せんとあかん。
ほかの宿に聞いてみると言ったのだから、伝えなければならない。
けれど、さっきまで会いたいと思っていた健司と、今は話すことが辛く感じる。
──どうしよう。
電話の前で立ち尽くしていると、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただーいまー!」
両手いっぱいに買い物袋を下げた母だった。
「あれ? どないしたん?」
受話器に手をかけたまま立っている奈美を見て、不思議そうに尋ねた。
「あ、うん。ちょっと電話しててん」
「電話?」
「うん。あの、去年来てくれたお客さんから電話あって」
母は少し考えるような顔をした。
「去年?」
「うん。男の人。あの、津村さんっていう……」
「ああ! あのお兄さんか!」
「その人な、今年も来たいって言うてくれはったんやけど、もう連休はいっぱいやったから」
「そうなんや」
「でな、近くの民宿も何軒か聞いてみたんやけど、どこもあかんかったわ」
「それは残念やったなぁ」
「うん。でも、まあ……しゃあないし」
奈美は口元だけで笑った。
「津村さんには返事したん?」
「今から」
「ほんなら、キャンセル待ちにしたら? 空いたら電話するようにして」
母の言葉に、奈美は黙った。
──もう、いい。
そう思ったけれど、口にしなかった。
「去年もギリギリに電話してきはって、たまたまキャンセルあったから来れはったしな。今年も何軒かキャンセルあるかもやし……」
「ああ……でも、どうかな。ダメならほかのところに早く決めたいんちゃうかな。それと──今回は彼女さんと一緒らしいし」
「彼女さん?」
「うん。二人で来るんやって」
なるべく何でもないことのように言ったつもりだった。
母は少しだけ奈美を見つめた。
「そっか……」
それ以上は何も聞かなかった。
「まあ、どっちにしろ早よ連絡してあげた方がええな」
「うん……」
「奈美、電話する?」
奈美は答えなかった。
母は一歩前に出て、受話器を取った。
「お母さんがするわ」
「……じゃ、お願い」
母は奈美から聞いた番号に電話をかけた。
奈美は少し離れたところで、その様子を見ていた。
母が相手に話している声は、いつもの宿の電話と変わらない。何度か頷きながら、近くの民宿も空きがないことを伝えている。
やがて、しばらく話してから受話器を置く。
「今回は別のところにするって」
「……そう」
「うん。また機会があったら、こっちにも泊まりに来るって言うてたわ」
「そっか……」
小さく頷いた。
母は奈美の顔を一度見て、買い物袋を持ち直した。
「奈美」
「ん?」
「お父さん、まだ寝てるんやろ? そろそろ起こしてきてくれる?」
「……うん」
そのまま父の部屋へ向かった。
──もう、これでいい。
母が代わりに電話してくれたことが、今はありがたかった。
翌日。
午後五時を過ぎた頃だった。
この日は予約もそれほど多くなく、夕食の支度もいつもよりゆっくり進んでいた。
奈美が厨房で母と並んで作業をしていると、勝手口の方から声が聞こえた。
「こんにちはー」
「あ、祐介や」
奈美が顔を上げる。
厨房を覗き込んだ祐介が、奈美に笑いかけた。
「明日、朝早く帰るから。今日のうちに挨拶しとこうと思って」
「そうなんや」
奈美は手を止めずに答えた。
「ごめんなあ、忙しい時間に。ほな元気で。またな」
「いや、愛想ないなあ。ちょっとだけ待ってくれたら一緒にコーヒー飲む時間作るで」
「あ、ええわ。ありがとな。今からちょっと出かけるし」
「どこ行くん?」
「明神岬」
奈美の手が止まった。
「……え?」
「明神岬。夕日、見に行ってくるわ」
祐介は窓の外に目を向けた。
「今日は天気ええし。明日帰るし、最後に見とこかなと思って」
「……そうなんや」
奈美はそれだけ答えた。
健司と行った明神岬。
そして、あの日──見られなかった夕日。
「ええねぇ」
母がぽつりと言った。
「ゆう君、一人で行くんかいな」
「はい」
「奈美も行ってきたら?」
「え!?」
「今日はそんなに忙しくないし。夕飯の支度も、もうほとんどできてるから」
「でも……」
奈美は祐介を見た。
「俺は別にええよ」
祐介が笑う。
「奈美さえよければ」
奈美はすぐには答えなかった。
去年、健司と見られなかった夕日。
また一緒に見たいと思っていた。
でも、もうそんな日はきっと訪れない。
こんな気持ちで、夕日を見ることができるのだろうか──
「ああ、もう! ええから行きいて!」
痺れを切らしたように母が言うと、後ろから父が口を挟む。
「おう、行っといで行っといで。デートやな」
「いやいや、デートちゃうわ! ゆう君、彼女おるし!」
奈美は思わず笑ってしまった。
そして祐介に向き直ると、エプロンを外した。
「ほな……行こか」
そう言ってしまうと、もう迷わなかった。




