第19話 待ち侘びた声
奈美は受話器を耳に当てたまま、しばらく動けなかった。
──まさか。
「あの……奈美さんですか?」
──いや、間違いない。
「あ、は、はい、そうです」
「去年、お世話になった津村ですけど……覚えてますか? 明神岬とか伊弉諾神宮に連れて行ってもらった……」
──覚えてますか、って……あたりまえやん。忘れるわけない。
奈美は一度大きく深呼吸をしてから、受話器を握り直した。
「あの、健司さん……ですよね?」
「そうです! ああ、よかった。覚えてくれてて」
「お久しぶりです。お元気ですか」
「はい。みなさんお変わりないですか」
「はい……」
少しの沈黙があった。
一年ぶりの会話に、二人とも何かを意識しているように言葉が途切れた。
「あの……」
しばらくして、健司が言葉を探すように口を開いた。
「あれから……またすぐにでもそっちに行きたかったんですけど、仕事が忙しくてなかなか行けなくて」
「お仕事……頑張っているんですね」
「環境にも少しずつ慣れて、おかげさまでなんとか頑張ってます」
去年、健司がここに来た時、奈美が誰にも言えない気持ちをずっと抱えていたように、健司もまた仕事のことで思い悩んでいた。
「よかったです」
「奈美さんも、頑張ってるみたいですね」
──奈美さん。
ここにいる間は「奈美ちゃん」と呼んでくれていたのに。
一年という時間が、少しだけ距離を遠ざけた気がした。
けれど、もしまた来てくれたら、この距離もきっとすぐに埋まる。
──また来てくれるんやろか。
すると、健司が言った。
「実は、また今年もお世話になりたくて電話したんですが」
──やっぱり。
「ありがとうございます!」
思わず声が弾んだ。
「去年、すごく楽しかったので」
その言葉に、奈美の頬が緩む。
たった三日間だった。
それだけなのに、健司と過ごした時間は、この一年の間に何度も思い出すほど大切なものになっていた。
「それで、連休に泊まりたいんですけど……」
「あ、はい」
「まだ空いてますか?」
奈美は思わず予約帳へ目を向けた。
今年もゴールデンウイークは、すでにほとんど埋まっている。
去年もそうだった。けれど、直前になってキャンセルが出たことで、健司はここに泊まることができた。
今年も、もしかしたら──
「えっと……」
ページをめくる。けれど、空いている部屋はなかった。
「すみません。もう、連休中はいっぱいです……」
「ああ……そうですか」
健司の少し残念そうな声が、受話器越しに伝わってくる。
でも、健司以上に残念に思ったのは奈美の方だった。
──会いたい。
奈美は予約帳を見つめた。
「でも……」
その先の言葉を探すように、少しだけ間を置いた。
「近くの民宿なら、空いてるところがあるかもしれません。私、何軒か聞いてみましょうか?」
「えっ、いいんですか?」
「はい。せっかく電話くれたんですから」
そう答えながら、奈美の胸は弾んでいた。
電話で話しているうちに二人の距離が戻っていくような気がした。
健司がまた淡路島に来る──そう思うだけで、去年の記憶が鮮やかに蘇る。
「連休中なら、いつでも大丈夫ですか?」
「はい。五月一日から五日の間で、一泊二日で」
──たった一泊か。ちょっと短いな。
でも、近くの民宿に泊まるなら少しでも会える。
また帰る日に、一緒にドライブできるかもしれない。
「えっと、一日から五日の間で一泊ですね」
メモを取りながら復唱する。
「はい。夕食と朝食付きで」
「……二食付き、と」
「あ、人数は二人です」
「人数は二人……」
──え?
メモを取る手が止まった。
「お二人、ですか?」
「はい。二人で」
「え、あの……えっと……」
奈美が口ごもっていると、健司はさらりと答えた。
「ああ、今回は彼女と一緒に行こうかと」
その瞬間、胸の奥で、何かがすうっと引いていった。
「あ……そうなんですね」
自分でもわかるくらい、声が小さくなった。
「はい。とても楽しかったと話をしたら、一緒に行きたいって言って」
「そうですか……ありがとうございます」
そう言いながら、奈美は受話器を握る手に少し力を入れた。
「……じゃあ、近くの民宿、聞いてみますね」
「本当にすみません。お願いします」
「いえ、大丈夫です……あの、電話番号伺ってもいいですか?」
「はい。携帯の番号言いますね。090の──」
──携帯持ってるんや。
去年、来た時も持ってたんかな。
それやったら、もっと気軽に電話くれてもよかったのに。
……いや、そんな問題とちゃうか。
「では、後でまた連絡します」
「お願いします」
電話を切る。
奈美は受話器に手を置いたまま、動けなかった。
別に、おかしなことではない。あれから一年も経っている。
いや、そもそも去年の時点で、彼女がいるかどうかなんて聞いていない。すでにいた可能性だってある。
何より、健司に恋人がいても何も不思議じゃない。
むしろ、当然なのかもしれない。
それでも。
ついさっきまで、電話がかかってきたことが、あんなに嬉しかったのに。
今は、胸の奥が妙に静かだった。
気持ちが落ち着いているわけではない。頭の中は少し混乱している。何をどう受け止めればいいのか、自分でもよくわからなかった。
奈美は目を閉じ、下を向いた。しばらくそのままでいたが、やがて息を吐く。
「そっか……」
そう呟くと、奈美は電話帳を取り出し、受話器を上げた。近所の民宿へ、部屋が空いていないか電話をかける。健司との約束だから。
一軒、二軒、三軒……。どこも答えは同じだった。ゴールデンウイークは、すでに満室だった。
それは残念なことのはずなのに、ほっとしている自分がいた。
健司は、来ない。
それでいい。
来たら、きっとまた期待してしまう。去年のことを思い出して、もしかしたら、と考えてしまう。でも、健司には、彼女がいる。それを知ってしまった今、もう期待する理由なんてない。
この一年間、ずっと健司のことばかり考えていたわけじゃない。
奈美だって、誰かに好意を向けられたことはあった。食事に誘われたこともあったし、何度か会ううちに、付き合うのも悪くないかもしれないと思った相手もいた。
けれど、どれも長くは続かなかった。その時は、それなりに楽しかった。嫌いだったわけでもない。ただ、いつの間にか会わなくなっていた。
それはどうしてだったのか。奈美自身、ちゃんと考えたことはなかった。でも今なら、少しだけ分かる気がした。
きっと──心のどこかに、ずっと健司がいたんだ。
だから、新しい誰かが入り込む余地はなかった。
そんなことを思いながら、奈美は窓の外へ目を向けた。
去年の春、始まったばかりだった気持ち。
まだ、何も始まっていなかったのに──
今、静かに終わった気がした。




