第18話 会いたい
ピピ、ピピ──
奈美は目覚ましを止めると、布団から起き上がった。大きく伸びをしながら壁に掛けられたカレンダーに目をやる。
四月も半ば。
「……早いなぁ」
小さく呟くと、着替えを済ませ、焼き魚の香ばしい匂いが漂う廊下を歩いて厨房へ向かった。
中に入ると大きな鍋からは湯気が立ちのぼり、その横で母が手際よく包丁を動かしていた。
「お母さん、おはよう」
「はい、おはよう」
「今日は満室やから忙しなるな」
奈美の言葉に、母は顔を上げて微笑んだ。
「そやな。もうすぐゴールデンウィークやし、しばらく忙しい日が続くなぁ」
「……うん」
奈美は小さく頷く。
──ゴールデンウィーク。
健司を港で見送ったあの日から、季節はひと巡りしようとしていた。
午前十時。
チェックアウトを済ませた泊まり客を見送り、奈美はシーツを抱えて二階の客室へ向かった。
窓を開けると、潮の香りを含んだ春の風が畳の上をゆっくりと吹き抜ける。シーツを外し、座布団を整え、窓の向こうに広がる港へ目を向けた。
この部屋で、この景色を眺めていた健司の後ろ姿を思い出す。
港で見送ってからしばらくは、玄関先の電話が鳴るたびに胸が高鳴った。
まだ携帯電話があたりまえではなかった時代。健司からの電話かもしれない──そう期待しながら何度も受話器を取った。
けれど、その期待も三か月ほどすると薄れていった。
健司からの連絡は、数週間後に民宿に届いた焼津の名産だという干物と「その節はお世話になりました」と添えられた短い手紙だけだった。
母がお礼の手紙を書いて、それきりだ。
それでも奈美は「また来るよ」と言った彼の言葉を信じたかった。
お盆。秋の連休。年末年始。
連休が近づくたび、予約帳に目を走らせた。けれど、その中に健司の名前は一度もなかった。
奈美は小さく息をつくと、シーツを抱え直した。
ゴールデンウィークまで、あと二週間。健司の名前がないまま、予約帳は埋まっていく。
昼過ぎ。
朝からの慌ただしさもひと段落し、奈美は厨房で一人、昼食を取っていた。
「まいどー!」
聞き慣れた声に顔を上げると、祐介が勝手口から笑顔を覗かせていた。
「ああ、ゆう君」
「ビール持ってきたで」
そう言うと祐介は外へ出て、ビールケースを抱えて戻ってきた。
「ありがとう。そこ置いといて」
「はいよ」
祐介はケースを厨房の隅へ運ぶと、軽く息をついて奈美を見た。
「今昼飯か?」
「うん。やっとや」
「相変わらず忙しそうやな」
「おかげさまで」
奈美は頭を下げ、おどけたように答えた。
「時間あるなら、そこ座って。コーヒー飲んでいきいや」
「おお、サンキュー」
椅子を引き寄せて腰を下ろした祐介は厨房を見回した。
「奈美一人なんか?」
「うん。お父さんは昼寝。お母さんは買いもん行ってる」
奈美は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出しながら、ふと一年前のことを思い出した。
──去年の今頃も、こうやってゆう君と二人で話をしたっけ。
あの時は気まずくて、まともに顔も見られなかった。
今ではこうして何気ない話をして笑い合える。
健司と出会わなければ、島を出た祐介や同級生たちへのわだかまりも消えることはなかったのかもしれない。
──健司と出会わなければ。
「奈美?」
「……え?」
「あ、いや、一瞬魂抜けた顔してたで」
「え? 魂って……何やそれ。大丈夫やで」
笑ってごまかしコーヒーを渡す。
「ゴールデンウィーク前やのに帰って来たんやな」
「連休明けから実習が続くからな。帰れるうちに帰っとこう思って」
「忙しそうやのに帰ってくるなんて、相変わらずここ好きやねんな」
「おう」
屈託なく笑う祐介を見ていると、一年前の自分が少し恥ずかしくなった。
あの頃の奈美は、島を出る人には皆それぞれの理由があるなんて考えもしなかった。ただ島を離れたいから出ていく。そう思い込み、その思いを祐介にもぶつけてしまった。
けれど、わだかまりが消えた今なら分かる。祐介は島を捨てたかったわけではない。島で水産関係の仕事に就くため、自分の夢に必要な道を選んだだけだった。
帰省するたび、何気ない話を重ねる中で、そんな祐介の思いも少しずつ知ることができた。
もし健司と出会っていなければ、今も祐介の言葉に耳を傾けることはなかったのかもしれない。
そう思うと、しまい込んでいた健司への思いが胸の奥に広がった。
──会いたいな。
心の中でそうつぶやいたその時、聞き慣れない電子音が鳴り、奈美はハッと顔を上げた。
「あ、ごめん、電話や」
祐介がポケットから携帯電話を取り出した。
「あー、もしもし?」
椅子から立ち上がり話し出した祐介だったが、どうやらうまく聞き取れないようだ。
「え? もしもーし! あかん、聞こえへん。そっち聞こえる? ……ごめん、あとでまた電話するから一度切るで」
電話を切り、ポケットにしまう祐介を見て、奈美はニヤニヤしながら言った。
「彼女?」
「うん……」
少し照れくさそうに祐介は答えた。
高校の頃から付き合っていた久美子とは昨年の夏に別れた。同級生の話によると、久美子の方から別れを切り出したらしく、島を離れて新しい生活を始めた中で、ほかに好きな人ができたらしい。
この話を聞いた時は、いつも明るい祐介だが、さすがに落ち込んでいるのではないかと奈美は心配したものだ。
けれどそんな心配をよそに、次に祐介に会った時にはもう新しい彼女ができていた。ほっとすると同時に拍子抜けしたことを思い出し、奈美はクスッと笑う。
「え? 何?」
「ううん。なんも」
──昔から女の子にモテてたからなぁ。
「携帯買ってんな」
奈美がそう言うと、祐介は電話をポケットから再び取り出し、自慢げというよりどこか嬉しそうに軽く振って見せる。
「うん。周りも持ち始めてるし、ないと何かと不便になってな。バイトで貯めてやっと手に入れたわ」
当時、携帯電話は少しずつ一般にも普及し始めていた。とはいえ、まだ持っている人は限られ、画面の小さな白黒液晶にアンテナが付いたその姿は、奈美にとってはどこか未来の道具のようにも感じられた。
「奈美はまだ持たんの?」
祐介の問いに、奈美は笑いながら大袈裟に手を振った。
「ここに住んでたらいらんわ。高いし。それに繋がりにくいやん。さっきもそうやったんやろ?」
「確かにな」
「お客さんも最近は持ってる人多いけど、電話する時はみんな外に出て話してるわ」
「この辺てまだ電波入りにくいもんな」
祐介はそう言って、携帯電話をポケットにしまった。
何気なくその姿を見ながら、奈美はふと思った。
──もしお互い携帯電話を持っていれば、気軽に連絡を取ることができたんやろか。
奈美は小さく息を吐くと、そんなことを考えた自分にふっと笑った。
「ほな、そろそろ帰るわ」
祐介が立ち上がった。
「もう帰るん?」
「うん。まだ配達あるしな」
「そっか」
「また来るわ」
「うん」
祐介は軽く手を上げると、そのまま勝手口へ向かった。
「気ぃつけてな」
「おう」
祐介が出ていくと、厨房には静けさが戻った。
奈美は食べ終わった食器を片付けようと立ち上がった。
その時──
プルルルル……。
玄関脇の電話が鳴った。
「はいはい……」
パタパタと玄関へ向かい、受話器を取る。
「はい、うしお荘です」
「……もしもし」
男性の声。
「はい」
「あの、津村といいますが……」
奈美の動きが止まった。




