第17話 小さな期待
境内を出て一の鳥居へ向かう途中、奈美が足を少し緩めた。
「……そろそろ岩屋に向かいましょうか」
「あ、もうこんな時間か。あっという間だね」
──本当に。
「お腹空いたね」
「岩屋に食べるとこあるんで、そこで食べましょか」
伊弉諾神宮をあとにすると、奈美はフェリー乗り場がある岩屋へ向けて車を走らせた。島を横切り、東海岸へ向かう。
やがて視界の先に明石海峡大橋が姿を現した。
海の上を大きく跨ぐ巨大な橋に、奈美は思わず目を向ける。
──やっぱり、すごいな。
橋が開通してから一か月。実際に見るのはこれが初めてだった。
橋を見ることにずっと抵抗があった。自分だけが島に取り残されたような気持ちになってしまうからだ。
それなのに今日はそんなことを考えることもなく、ただその景色に見入っている。こんなふうに素直な気持ちで橋を眺められるのも、健司のおかげなのかもしれない。
奈美はハンドルを握り直した。
港が近づくにつれ、周囲は少しずつ賑やかになっていく。海にはフェリーや高速艇が行き交い、道路には車の列が続いていた。
橋が開通したとはいえ、当時はまだフェリーを利用する人も多く、港の周りにはどこか活気が残っていた。
港の近くの駐車スペースに車を停めた。車を降りると、潮の匂いが少し強くなった。
ふと奈美は海の方へ視線を向け、港のすぐ前にある小さな岩島を指さした。
「あれが……」
「ん?」
「さっき話してた、おのころ島の候補のひとつって言われてる島です」
視線の先にあるのは、岩肌が層になった不思議な形の島──絵島だった。
健司はしばらく黙ったまま見つめた。
「……すごいな」
思わず漏れた声は、少し子どものようだった。
絵島は、二階建てのビルほどの大きさの巨岩だ。
白っぽい岩肌には茶褐色の模様が幾重にも走り、まるで天然の彫刻のようにも見える。頂上には小さな社と鳥居が建っていた。
その背後には、完成したばかりの明石海峡大橋が大きく横たわっている。
「なんだか不思議な光景だね」
古代の神話と、現代の巨大な構造物が同じ視界に重なっている。
「あ、あの島、登れるんだね」
岩肌を何人かの人影が歩いているのを見て、健司が目を細めた。
「登れますよ」
奈美が指差した先に一本の短い橋が架かっていた。
この頃の絵島はまだ立ち入りの制限もなく、誰でもこの橋を渡って島に入り、頂上まで登ることができる身近な存在だった。
「へえ……」
健司は興味深そうに見つめていたが、時計を確認すると小さく笑った。
「でも、今日はやめとこうかな」
奈美も思わず時計に目をやった。
「ああ……」
「お腹空いてるし。また次に来た時の楽しみにするよ」
──次。
何気なく口にしただけの言葉だとわかっている。それでも、その響きが心に残った。
ふと視線を上げた。
「何食べますか?」
奈美は少し明るい声で、健司に声をかけた。
健司は笑顔で答えた。
「海鮮はもう、奈美ちゃんのところでいっぱい食べさせてもらったからなぁ」
その言葉に、奈美は思わず笑ってしまった。
「じゃあ……軽く、明石焼きとかどうです?」
「明石焼き?」
「あれ? 知りません? ふわふわの卵焼きみたいなたこ焼きで、出汁につけて食べるんですよ」
「へえ、おいしそうだね。それ食べたいな」
フェリーターミナルの周りには食事ができる店がいくつかある。二人はすぐそばに見える橋を眺めながら、明石焼きの店へ向かった。
席に着いてしばらくすると、熱々の明石焼きが運ばれてきた。
健司が美味しそうに頬張る姿に、奈美も思わず笑みをこぼす。
「本土から橋を渡ってすぐのところに新しいサービスエリアもできたんですよ。結構話題になってて」
「へえ、そうなんだ」
「まだ行ったことないんですけど、景色がきれいで、ご飯も色々あるそうなんです。時間があれば、そこに行ってもよかったかなって」
「高速道路の中だよね?」
「一般道からも行けるそうなんです」
「じゃあ、それも次に来た時の楽しみだね」
「そうですね」
その時はまた自分と一緒なのだろうか──
奈美は小さく微笑んだ。
店を出ると、港の風が少し強くなっていた。潮の匂いが混じった空気が頬に当たる。
フェリーターミナルの建物に入ると、思った以上に人がいた。
健司が乗船券を買いに受付へ向かう。その後ろ姿を、奈美はぼんやりと見つめた。
しばらくして、健司が戻ってきた。
「次の便に乗れるって」
「そうですか」
たったそれだけの会話なのに、寂しさがじわっと広がる。
乗船口へ向かいながら、健司が奈美に向かって真顔になった。
「奈美ちゃん。本当に今日はありがとう。ただの泊まり客なのに、ここまでしてもらっちゃって。ご両親にも、くれぐれもお礼を言っておいてね」
その言葉に、奈美は少しだけ目を伏せる。
「すごく楽しかったよ。それに──奈美ちゃんと話したことで、前向きになれた気がする」
「え?」
──それはこっちのセリフだ。
でも、それをそのまま返すと、何かが溢れてしまいそうで。
「……私もです」
それだけを、ようやく言った。
乗船の時間まではまだ少し余裕がある。それでも改札の前まで来ると、もうここから先が境界線なんだと感じた。
健司は荷物を持ち直しながら、少しだけ奈美の方を見る。
「また必ず来るね。お互い頑張ろうね」
そう言って手を差し出した。
奈美は一瞬だけ戸惑う。
──あ……握手なんや。
何を期待していたのだろう。自分でも少しおかしくなった。
「……はい」
そう答えて、奈美も右手を差し出した。
「本当にありがとう。ご両親によろしく」
そう言って、健司は改札の方へ歩いていく。
やがてその後ろ姿が人混みに紛れて見えなくなると、周りの音だけがやけに大きく聞こえた。
奈美はすぐには車へ戻らず、そのまま岸壁へ向かった。
低い汽笛が港に響き、フェリーがゆっくりと離れ始める。しばらくすると、デッキに健司の姿が現れた。奈美に気づくと、少し笑って手を上げる。
奈美も手を振り返した。なんだか少し照れくさい。
フェリーは少しずつ小さくなっていく。奈美はその姿を見送りながら、ふっと微笑んだ。
寂しいのは確かだ。でも、それ以上に心が温かかった。
たった三日間。
始めはあまりいい印象ではなかった。それが、いつの間にか気になる人になって、ドキドキする人になって、安心できる存在になっていた。
たった三日間で。
また会えるかもしれない。その時に何かが始まるのかもしれない。
そんな小さな期待が胸の中に残っている。
もう、ごまかせない。
あの人のこと、好きなんや──
健司と出会って、見える景色が少し変わった気がした。
もしこれが恋なら、いつかまたこの続きを始められたらいい。
白い航跡を残して遠ざかっていくフェリーを、奈美は静かに見つめていた。
1998年当時の絵島は、橋を渡って島の中へ入ることができました。しかし、長年の風雨や波による風化が進み、安全面への配慮から2018年より立ち入りが禁止されています。
岩屋と明石を結ぶフェリーの姿も変わりました。当時は車を載せて渡ることができるフェリーが24時間運航していました。しかし、明石海峡大橋開通後は利用者が減少し、車両を運ぶフェリーは姿を消しました。現在は明石と岩屋を結ぶ旅客船のみが運航されていて、深夜の運航もなくなっています。
人の流れはフェリーから車へと移り、岩屋周辺の風景も少しずつ変わっていきました。近くのサービスエリアには2006年に大観覧車が誕生し、今では岩屋のシンボルのひとつとなっています。変化を経ながらも岩屋は今も多くの人が訪れる場所です。




