第16話 始まりと終わり
健司と奈美は大きな一の鳥居をくぐり、参道を進んだ。石灯籠の並ぶ道の先に立つ二の鳥居を抜けて正門を入ると、参道の両脇には大きな木々が並び、境内は少し涼しく感じられた。
木漏れ日が石畳の上に揺れている。
「あれが夫婦楠です」
奈美が指差した先には、大きな楠が立っていた。二本の木が寄り添うように並び、頭上では枝葉が重なり合ってまるでひとつの木のようにも見える。
「ああ、なるほど」
健司は足を止めて見上げた。
「確かに夫婦って感じだね」
奈美にとっては子どもの頃から何度も見てきた木だった。
けれど今日見る景色は、少しだけ違って見えた。
二本の木は並んで立っている──
あたりまえのことなのに、それがなぜか今日は特別なもののように感じられた。
「あれが本殿?」
楠を見上げていた健司が、その先へと視線を向ける。
「そうなんですけど……まずは、こっちへ」
奈美は本殿へ向かわず、境内の左手へと歩き出した。
「ん?」
「正式には先にここでお参りするんです」
奈美が立ち止まったのは祓殿だった。
「ここでお参りして身を清めてから本殿へ行くんです。神話ではイザナギが黄泉の国から帰ってきたあとに汚れを祓ったっていう話があって。それにちなんでるそうですよ」
「なるほど」
祓殿でのお参りを済ませると、二人は隣にある本殿に向かった。
「この神社って、イザナギが最後に暮らした場所なんです」
本殿を見上げて奈美は続ける。
「イザナミとは離婚したって話、したじゃないですか」
「うん。神様も大変だね」
健司が苦笑する。
「ですよね」
奈美もつられて笑った。
「そのあとイザナギは、娘のアマテラスに天界の仕事を任せて、この淡路島で余生を過ごしたって言われてるんです」
「へえ」
「自分が最初に生み出した淡路島で、最後はゆっくりしたかったんとちゃうかなって」
奈美は本殿へ視線を向けた。
「それで、そのままここで亡くなって、お墓があった場所にこの本殿が建てられたそうなんです」
そこまで話して健司を見ると、少し驚いたような顔をして奈美を見ていた。奈美が小首を傾げると、彼は感心したように言った。
「奈美ちゃんって、若いのに凄いよね」
「え? 何がです?」
「さっきから聞いてて思ったんだけど、神話とか神社のこと、よく知ってるなって。島の人ってみんなそんなに詳しいのかな」
奈美は少し笑った。
「いやいや、みんながみんなそうやないと思いますよ」
そう言ってから、前を向いたまま続ける。
「私は小さい頃からイザナギさん──この神社によう来とったんです。割と近いし。それに民宿のお客さんに聞かれることも結構あるんで」
「ああ、そうなんだ」
「お父さんやお母さんがお客さんに説明してるんを最初は何となく聞いとっただけなんですけど」
奈美は少し肩をすくめた。
「もともと神話とか昔話みたいなん好きやったし、気になったら自分でも調べたりして。そしたら、いつの間にか結構詳しくなってしもて」
「なるほど」
健司は納得したように頷いた。
「話を聞いていて、好きなんだろうなっていうのは伝わってきたよ」
奈美は少しだけ照れながら笑う。
「そうですか?」
「うん。それに──」
健司は少し考えるように言葉を探した。
「奈美ちゃん、昨日さ、島を出たかったって言ってたじゃない?」
不意にその話を持ち出され、奈美は少し目を瞬かせた。
「ええ、まあ……」
「でも、さっきの明神岬の話もそうだし、今の神話の話もだけど、話してる時の奈美ちゃんを見てると、この島のことが本当に好きなんだなって思うんだ」
「好き……ですか?」
「うん。僕も地元を出て東京に行きたかったから、その気持ちは分かるんだ」
健司は少し笑った。
「別に故郷が嫌いだったわけじゃない。でも、違う世界を見てみたかった」
奈美は黙って聞いていた。
「だから奈美ちゃんも、島を出たいっていうのと島が好きっていうのは別なんだろうなって。それと──」
健司は周囲の景色を見渡した。
「奈美ちゃんは、自分で思ってるよりずっとこの島のことを大事にしてる気がする」
奈美はすぐに返事ができなかった。
ずっと島を出たいと思っていた。何もない島だとも思っていた。
けれど──
子どもの頃から見慣れた海も、毎日のように眺める夕日も、こうしてあたりまえのように話している神話や神社のことも、嫌いだったことなど一度もなかった。
ただ、そこにあるのがあたりまえすぎて、意識したことがなかっただけだ。
むしろ、自分でも気づかないうちに、この島を誇りに思っていたのかもしれない。
奈美は少し照れくさそうに笑った。
「そうなんですかね」
「たぶんね」
健司も笑う。
二人は参拝を済ませるとそのまま境内をゆっくり歩いた。
ふと健司が立ち止まる。
参道脇に立てられた案内板を読んでいた。
「ん?」
奈美も隣から覗き込む。
そこには国生み神話の説明が書かれていた。
イザナギとイザナミが天の沼矛で海をかき混ぜ、その先から落ちた雫が固まり、一つの島になった──
「奈美ちゃん」
健司が案内板を指差した。
「これって、雫が固まってできた島が淡路島なの?」
奈美は思わず笑った。
「いやいや、ちゃうんですよ」
「違うの?」
「その雫でできた小さな島に降り立って、淡路島とかほかの島を作っていったんですよ。その雫でできた島は自凝島っていうんです」
「おのころ島?」
「ここがイザナギが最後に過ごした神話の終わりの場所なら、おのころ島は神話の始まりの場所になりますね」
「へえ」
「ただ、そのおのころ島がどこだったかは今もはっきりしてないんですよ」
健司が興味深そうに顔を向けた。
「そうなの?」
「島の南の方におのころ島神社っていう名前の神社があって、そこやと言われたり。それとは別に沼島──沼に島って書いて『ぬしま』っていう島があって、そこやと言われたり。あと、岩屋にある絵島やという説もあるんですよ」
奈美は肩をすくめた。
「今もはっきりわかってないみたいです」
「面白いね」
「何がですか?」
健司は参道の先に見える社殿へ目を向けた。
「始まりの場所ははっきりしないのに、終わりの場所はここだってわかってるんだ」
その言葉が奈美の胸に妙に残る。
「不思議だな」
「……そうですね」
健司はもうすぐ島を離れる。
彼との終わりは見えている。
でも、この気持ちがいつ始まったのかはよく分からない。
あの宴会のような夕食の時からだっただろうか。
夜の海岸で本音を話した時だったろうか。
それとも、初めて会った瞬間からだろうか。
始まりは曖昧なのに──終わりだけはこんなにも鮮明だ。
風が木々を揺らした。




