第15話 縁結びの神様
神社の前に停めた車まで戻ると、奈美は乗り込む前に岬を振り返った。
さっきまで立っていた場所は、もう木々の隙間に半分隠れていて、海のきらめきだけがわずかに見えている。
──また、ここに来れたら。
そんなことをほんの一瞬だけ思い、奈美は車に乗りエンジンをかけた。
再びサンセットラインへと合流すると、しばらくは海沿いの道を北へ戻るように進んだ。
岬の気配が少しずつ遠ざかっていく。
「この辺から少し内側に入りますね」
車は右にハンドルを切り、サンセットラインを離れた。
海の気配が少しずつ薄れ、代わりに木々の密度が増していく。
道の両側には、こんもりとした緑がせり出すように続いていた。
しばらく進むと、その木々の向こうに静かに開けた空間が見えてくる。そして伊弉諾神宮の大きな鳥居が、ゆっくりと視界の中心に現れた。
「ああ、ここ? 大きな鳥居だね」
「これはね、建て直されたんです」
一の鳥居はもともとは明治時代に建てられた、高さ八メートルもある立派な石造りの鳥居だった。だが三年前の大地震で、その根元から崩れるように倒れた。境内の灯籠もなぎ倒され、あちこちに深い傷が残った。
それでも鳥居は、その年のうちにわずか十か月ほどで再建されている。境内には今も震災の傷跡が残り、修復が続いている場所もある。それほど被害が大きかった中で、鳥居は多くの人の思いに支えられながら、いち早く元の姿を取り戻したのだった。
車を駐車場に停め、二人は改めて鳥居の前に立った。
「前のもこのくらいの大きさだったの?」
健司がそう言うと、奈美は見上げたまま答えた。
「私の記憶ではほとんど同じ大きさかな」
健司の視線が鳥居の足元へと移る。
「こんな大きなものが根元から倒れるなんて、本当にすごい地震だったんだね……」
奈美は小さく頷いた。
しばらく二人ともそのまま鳥居を見上げていたが、ふと奈美が健司に向き直った。
「ここね、日本最古の神社のひとつなんですよ」
「そうなんだ──いや、ごめんね。イザナギとイザナミも名前だけは知ってるけど、話はよく知らなくて」
奈美は少し笑った。
この神社は島の人々にとって特別な場所だ。奈美にとっても小さい頃から何度も訪れてきた馴染み深い存在だった。
「ここは縁結びでも有名なんですよ」
奈美がそう言うと、健司は少し意外そうな顔をした。
「縁結び?」
「はい。イザナギとイザナミって、日本で最初の夫婦とも言われてるんで」
「そうか。なるほど」
健司は納得したように頷いた。
縁結び。
口にした瞬間、奈美はほんの少しだけ落ち着かない気持ちになった。
だけど、そんなことは顔には出さない。
「でも、子供の頃は不思議やったんですよね」
「何が?」
「だって、この二人って最後はあんまり円満やないんです」
健司が目を瞬いた。
「そうなの?」
「イザナミが亡くなって黄泉の国へ行ってしまって、それをイザナギが迎えに行くんですけど……」
そこまで聞いて、健司が思い出すように言った。
「あれ? その話、知ってるかも」
「え?」
「振り向いちゃ駄目だって言われてたのに、途中で振り向いてしまって、結局奥さんが向こうへ戻されちゃう話でしょ?」
奈美は一瞬頷きかけたが、途中で首を傾げた。
「……あれ?」
「違った?」
「それ、多分別の話と混ざってますね」
「……そう?」
奈美は思わず笑った。
健司が思い浮かべていたのは、おそらくギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの物語だろう。
死んだ妻を連れ戻すため冥界へ向かったオルフェウスは、「地上へ戻るまで決して振り向いてはならない」と告げられる。しかし最後の最後で振り向いてしまい、妻を永遠に失ってしまう。
愛する人を死者の国から連れ戻そうとする点ではよく似ているが、イザナギとイザナミの神話は、その後の展開がかなり違っていた。
「イザナギとイザナミは、そんな切ない感じとちゃうんです」
奈美は笑いながら首を振った。
「もっと怖いんですよ」
「怖い?」
「イザナミを迎えに行って、『見たらあかん』って言われてたのに、結局見てしまうところまでは合ってるんですけど──」
「うん」
「イザナミを見たらね、とんでもない姿になっていて。ウジ湧いてたんちゃうかったかな」
健司が思わず顔をしかめた。
「うわ……」
「ほんで、怒ったイザナミが追いかけてくるんです」
「思ったより怖いな」
「でしょ?」
奈美は少し得意げに笑った。
「最後は黄泉の国の入口を大きな岩で塞いで、そのまま別れるんですよ。それが死者の国との境目になったとも言われとるんです」
「別れる?」
「はい。まあ、離婚ですよね」
奈美は肩をすくめた。
「なので、子供の頃は、『これで縁結びの神様なんや』って思ってしまって」
健司が吹き出した。
「確かに」
「ですよね?」
奈美もつられて笑った。
しばらく笑ったあと、健司がふと鳥居の奥へ目を向けた。
「でもさ」
「はい?」
「別れたことより、その前に夫婦になったことの方が大事なんじゃないかな」
奈美はきょとんとする。
「え?」
「だって、日本で最初の夫婦なんでしょ?」
健司は少し考えるように続けた。
「最後はうまくいかなかったとしても、一緒に国を作ったり、いろんなものを生み出したりしたわけだし──」
言葉を探すように少しだけ黙った。
「だから、縁結びの神様なんじゃない?」
「……ああ」
そんなふうに考えたことはなかった。
子供の頃から何度も聞いてきた話なのに、最後に別れたことばかり印象に残っていた気がする。
「そういう考え方もありますね」
健司は少し照れたように笑った。
「ただの想像だけどね」
「でも、何か納得しました」
風が木々を揺らし、葉擦れの音が頭上を通り過ぎていく。
ふと腕時計に目を落とすと、もう十二時を回っていた。
「あ」
健司が島を離れる時間も、少しずつ近づいている。
こんなふうに残りの時間を気にしているのは、多分自分だけなのだろう──奈美はそっと時計から目を離した。
鳥居の向こうには、静かな参道が続いている。
二人は並んで、その先へと歩き出した。
作中では触れませんでしたが、伊弉諾神宮には「陽の道しるべ」や「レイライン」と呼ばれる話があります。
伊勢神宮や出雲大社、高千穂、熊野など、日本を代表する聖地と伊弉諾神宮を地図上で結ぶと、ほぼ一直線に並んでいると言われています。
もちろん、それに特別な意味があるのか、それとも偶然なのかは分かりません。
ただ、日本を生んだ神様を祀る伊弉諾神宮が、その中心に位置しているというのは面白い話だなと思います。
ちなみに、この話が広く知られるようになったのは、作中の舞台である1998年より後のことです。
今の伊弉諾神宮を語る上ではよく紹介される話なので、後書きで少しだけ触れてみました。




