第12話 見送りの朝
ピピ、ピピ──
眠気の残るまま、奈美は目覚ましを止めた。もう一度目を閉じ、布団の中で小さく息をつく。
昨夜のことが頭から離れない。
気恥ずかしさもある。けれど、不思議と心は少し軽かった。
健司のこと。
祐介とのこと。
そして、健司が今日この島を離れること──
胸の奥が落ち着かないまま、奈美は布団から起き上がった。支度を済ませ、厨房へ向かう。
「お母さん、おはよう。あれ? お父さんまた漁行っとるん?」
父の姿が見えず聞くと、母は笑いながら答えた。
「そやねん。ゴールデンウィーク中は宿が忙しいからやめとく言うとったのに、結局全部行くんやろな」
「マグロと一緒やな。止まったら死ぬんやわ」
「上手いこと言うなぁ」
そんな話をしながらも、奈美は健司のことを考えていた。
今朝も市場へ行ったのだろうか。
気にはなったが、母に聞くのはなんとなく気が引けた。
昨夜、遅くまで健司と話していたことなど、なおさら言えるわけがない──
「昨日、遅うまであのお兄さんと話しとったんやて?」
「え!? なんで──」
奈美は思わず目を丸くした。
「五時前に眠そうな顔して降りて来てな。また市場行きはったわ。あんたと話せて楽しかった言うとったで」
「あ……」
「何を話したかまでは聞いてへんけどな」
母はそう付け加えた。
気を遣ってくれているのだろう。
けれど奈美は、昨夜の会話や自分の言動を思い出して、余計に恥ずかしくなってしまう。
平静を装うように冷蔵庫を開けると、赤くなった顔を隠すように中を覗き込みながら、奈美はさりげなく口を開いた。
「あのお兄さん、今日も頑張って早よ起きはってんな」
「今日帰らはるしな」
母の言葉に、奈美の動きが止まる。
たった三日。
時間にしたら、ほんの数時間一緒にいただけなのに。
思えば、最初から何となく気になる人だった。
それは、自分が憧れていた都会の匂いがしたからなのか。それとも、自分と同じように人に言えないものを抱えていたからか。
だけど昨夜、彼と話して、自分の中で何かが大きく変わったことだけは確かだった。
このまま、また何も言えない自分に戻りたくなかった。
「お母さん、あの、ご飯、ちょっと多めに炊いていい?」
「ん?」
「ゆう君、午前中に帰るって……。哲ちゃんと一緒に車で。だから、あの……」
「ああ、ええよ。おにぎりこさえるんやな」
「うん」
母は何でもお見通しだ。
「ゆう君、何時に出るって?」
「わからんけど、あんまり早くても寝てたら悪いし。九時頃持っていく。その頃やったらちょっと抜けても大丈夫かな」
「かまへんよ。間に合わんかったらあかんから早めに行きな」
「うん。わかった」
祐介の家は、走れば五分ほどで着く。
会って──謝ろう。
「あ、お父さん帰ってきたんちゃう?」
外から話し声が聞こえる。窓を見ると、昨日の朝と同じように、父と健司がそれぞれ発泡スチロールの箱を抱えて歩いている姿があった。
奈美は健司にどんな顔で挨拶したらいいのか、わからなかった。
それは、昨夜の自分の言動が恥ずかしいからなのか。
今日、彼がこの島を離れてしまう寂しさからなのか。
それとも、別の感情なのか──自分でもわからなかった。
戸惑いながらも二人を迎えるために勝手口を開ける。
「おはようございます」
健司に対して少しはにかみながら挨拶をしたつもりだったが、彼よりも先に父が口を開いた。
「おう、奈美。昨日遅うまでこの兄さんと話してたて?」
「え……?」
──もう! 何でお父さんにまで言うんよ!
思わず心の中でそう漏らす。昨夜のことは、二人だけの秘密みたいに思っていたのに。
ほんの少し拍子抜けした。
せっかく自分の中で特別な空気のように感じていたのに、という気持ちはある。
だが、それならそれでいいとも思えた。
変に意識しなくていいのなら、その方がずっと楽だ──そう思った瞬間、胸の奥の緊張がふっとほどけた。
「奈美ちゃん、おはよう」
勝手口から入ってきて、厨房の台に魚の入った箱を下ろす健司。
その動きに、奈美はふと目を止めた。まるで、以前からここで働いている人みたいだった。
「ちゃんと起きれたんですね」
「うん。頑張ったよ」
箱の上に手を置き、少し得意げに胸を張る健司を見て、奈美はくすっと笑う。
すると健司は奈美のそばに寄り、小声で言った。
「お父さんとお母さんには、奈美ちゃんと魚の話をしてたって言っといたよ」
優しい目でそう言われて、奈美はまた小さく吹き出す。
「魚の話って……」
ほかに言いようがあったやろ、と心の中で突っ込みながらも、その不器用さが妙におかしかった。
やっぱり昨夜のことは、二人だけの秘密のままだったのかもしれない──そんな気がして、少しだけ嬉しくなった。
健司が厨房をあとにすると、奈美たちは朝食の準備のため慌ただしく動き回った。
泊り客に食事を運び、片付けをしているうちに、気づけば時計は八時半になろうとしている。
祐介は、まだ家を出ていないだろうか。電話をして確認するのも、何だか気が引ける。
会えなかったら、その時はその時──そう思った瞬間、勝手口が開き、聞き慣れた声が耳に飛び込んだ。
「すみませーん……」
いつもと違う、どこか遠慮がちな声だったが、祐介の声に間違いない。
まさかと思いながら、奈美は勝手口を振り返る。
彼のほうから会いに来るとは思っていなかったものだから、心の準備が追いつかなかった。
「おう! 祐介。どないしたんや、こんな朝早ように」
父は戸惑う奈美には構わず、明るい声を上げた。
「今日、あっちに帰るんで……その、奈美に、ちょっと……。すんません、忙しい時間に」
「おう、ええで。奈美、別れ惜しんどいで」
そう言って、父は顎でしゃくり、外へ行けと合図をした。
別れ惜しんどいで、って──
粋な計らいなのか、逆に空気を読んでいないのか、奈美にはよくわからなかった。
とりあえず祐介に外で待っていてもらうよう声をかけ、慌てて用意していたおにぎりを包む。
ちらっと母を見ると、何も言わずに小さく頷いた。
──お母さんは完全に空気読んでるな。
少しぎこちない笑顔を返し、奈美は外へ出た。勝手口を開けると、腰に手を当てて背を向けていた祐介が振り返る。
「あ……」
「あ……」
同時に口を開き、すぐに二人とも口を閉じた。
一瞬、気まずい沈黙が流れる。
だが奈美は一歩前へ出ると、手にした包みを差し出した。
「これな、おにぎり。しらすの。哲ちゃんと食べて」
祐介はしばらく奈美の差し出した手を見つめ、それから顔を上げて照れたように笑った。
「サンキュー。途中でどっかで昼飯食おう思ってたから、助かるわ」
そしてまた沈黙。
それでも、先に口を開いたのは奈美だった。
「これ渡しにな、ゆう君ち行こ思ててん」
「そうなんや。いや……奈美、俺に会いたくないかもと思てんけど、やっぱり、その、昨日の……あの、あのままやったら、その……」
しどろもどろの祐介を見て、奈美は、自分の言葉が思っていた以上に彼を悩ませていたのだと気づいた。
──ゆう君、何も悪ないのに……。
少しだけ迷うように視線を落としてから、奈美は静かに口を開く。
「昨日な、こっからライトアップ見てん」
「え?」
急にそんな話をし始めた奈美に、祐介は戸惑った表情を見せた。
「ゆう君、橋のライトアップのこと言うてたやろ。でもな、私、前から時々見てたんよ」
「けど……こっから見えんやろ?」
「橋はな。でも空の色でわかるねん」
「知らんかった……そうなんや」
しばらく、また沈黙が流れた。
「今度な……今度はちゃんと橋も見に行くわ」
祐介をまっすぐ見て、奈美はそう言った。
彼は少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
その表情を見た瞬間、奈美は「昨日はごめん」と言いかけた言葉を飲み込む。
もう、言わなくてもいいとわかった。
祐介もまた、何かを言いかけて、それをやめる。
代わりに、小さく頷いた。
言葉にしなくても、お互いもう十分伝わっている気がした。
「あ……ほな、行くわな。弁当、サンキューな」
祐介はおにぎりの包みを抱え直し、体の向きを変えた。
「うん。来てくれてありがとう。哲ちゃんによろしく」
「おう」
片手を上げて歩き出す祐介。
「あ、あと、久美子にもよろしく言うといて。仲良うな。今度は一緒に帰っといでな」
「おう。わかった。奈美も彼氏できたら教えてや」
「はいはい。そのうちな」
奈美は軽く笑って手を振った。
以前なら、そんなことを言われれば、「こんなとこで出会いなんかあるはずない」と、少なからず嫌な気持ちになっていたと思う。
けれど今は、不思議と素直に笑えている。
ちゃんと、分かり合えた気がする。
そんなふうに思えたのは、きっと健司のおかげなのだろう。
少しずつ遠ざかっていく祐介の背中を見送りながら、奈美は少しだけ寂しさを感じていた。
その時、ふと健司の顔が頭に浮かんだ。
健司とも、あと少しで別れることになる──
奈美は一度だけ空を見上げると、勝手口のドアノブに手をかけた。




