第13話 おでかけ
祐介を見送って厨房へ戻ると、母が声をかけてきた。
「ゆう君、もう行ったんか?」
「そろそろ家に哲ちゃん迎えに来るんやて」
奈美がそう答えると、母は少しだけ様子をうかがうような顔をした。
「おにぎり、何て言ってた?」
「喜んどった。普通に喋ったし」
そして奈美は少しだけ照れくさそうに呟く。
「……心配かけて、ごめん」
母は困ったように笑った。
「ほんまやわ」
その声は、安心したような響きだった。
「すみませーん」
玄関の方から女性の声がする。
時計を見ると、もう九時だった。そろそろ宿を発つ客たちが動き始める時間だ。
「はーい」
母は返事をすると厨房を出ていった。
健司もそろそろ降りてくる頃だろう。
そろそろ、お別れか──
そう思った瞬間、
「あー! そうや、奈美!」
モップで床を磨いていた父が、何か思い出したように顔を上げ、大きな声を出した。
「びっくりした! 何?」
「あのお兄さん、今日帰るやろ?」
「あ、うん。そうやな」
考えていたことを見透かされた気がして、思わず父の顔を見る。
そんな奈美の様子には気づいていないようで、父はいつもの明るい調子で続けた。
「なんかな、急に決めて予定も何も立てんとここに来たらしいわ」
「ああ、そう言ってはったな」
「せっかく二泊もしたのに、ほとんど観光してへんみたいやからな。昨日も断層見て漁船乗ったくらいやろ?」
「うん……ほんで?」
父はモップを動かしながら、何でもないことのように言う。
「せっかくやし、このあと奈美ちょっと案内したりいや。車で」
「……えっ!?」
思わず変な声が出る。
「朝早よ起きて市場まで見に来たり、魚のこと色々聞いてきたり、なかなかええ感じの青年やったしな。世間はゴールデンウィークやし、奈美もたまには息抜きしたいやろ? 行ってきたらええやん」
「いやいやいや、ここどうするんよ。昼からも忙しいやん。満室やのに」
急に何を言い出すんだ、と言わんばかりに奈美は呆れた顔をした。
するとちょうどその時、母が戻ってくる。
「どしたん?」
父が事情を話すと、母は少し笑った。
「ええやん。行っといでぇや。昨日からの連泊二組あるから、掃除もそないせんでええし。夕食の時間までに帰って来てくれたら大丈夫やわ」
「いや、でも……」
奈美がまだ戸惑っていると、父は当然のように続ける。
「免許取り立てやから運転だけ気いつけてな。ま、奈美は割と上手いし大丈夫やろ」
「いや、運転どうこうやなくて……私、若い娘やで? そんな、よお知らん男の人乗せるとか普通に嫌やわ」
奈美がそう言うと、父は「ああ、そこか」という顔をした。
「まあでも、お兄さんちゃんとしとるし、変な感じちゃうやろ?」
「そういう問題ちゃうねん」
すると母がくすっと笑う。
「奈美が嫌やったら無理にとは言わへんよ」
「……ほな、やめとくか?」
二人があっさり引き下がるように言うと、逆に奈美は返事に詰まった。
「あ、いや……まあ、お父さんとお母さんがそうした方がいいって言うなら、ええけど……。でも、お兄さんに聞いてみなわからんやん」
父はそんな奈美を見て、少し笑った。
「いや、あのお兄さんにはもう言うてるから、そのつもりやと思うで。奈美に言うの忘れとっただけや」
「え! もう、何なんよ!」
急にそんなことを言われても、髪はぼさぼさで化粧もしていなければ、服も仕事着のままだ。
奈美の慌てた様子に、母は呆れたように笑った。
「とりあえずお兄さんに確認しといで。ほんでから用意したらええやん」
「え? 私が聞くん?」
「どこ行きたいか聞いて、ちゃんと決めてからの方がええやろ?」
母は「早よ行っといで」と言わんばかりに手を振って奈美を促した。
「しゃあないな……わかったわ」
面倒くさそうに返事をしながらも、奈美はどこかそわそわしていた。
エプロンを外し、ひとつ深呼吸をしてから健司の部屋へ向かった。
部屋の前で、もう一度小さく呼吸を整える。
「失礼します……」
奈美はそう声をかけて、引き戸を開けた。
健司は窓際に立ち、海を眺めていた。
奈美はふと、一昨日のことを思い出す。
この部屋に案内した時も、健司は真っ先に窓際へ向かい、海を見ながら嬉しそうに声を上げていた。
『ほんっと、何もないですねー』
外を眺めたまま笑っていた姿に、あの時は少しむっとしたのに──
今は、その背中がもうすぐ見られなくなるのかと思うと、素直に寂しかった。
奈美に気づいて振り返った健司の表情も、どこか寂しそうに見えた。
けれど、その理由は自分とは違うのだろう。
健司にとっては、この海やこの景色と離れることが名残惜しいのかもしれない。
「あ、もう時間?」
奈美は少し視線を落とす。
「いえ、チェックアウトは十時なので、まだ大丈夫なんですが──」
父がどんなふうに話をしたのかはわからない。本当にそのつもりなのか聞こうとした時、健司が少し慌てたように言葉を重ねた。
「奈美ちゃんがどこか連れて行ってくれるって、お父さんに聞いて、すごく嬉しくて。ごめんね、忙しいのに。時間は合わせるし、何ならどこかで時間潰すから言ってね」
その言葉に、奈美は一瞬戸惑う。
もう確認の段階ではなく、行く気はすっかり固まっているようだった。
「えっと……あ、行きたいところとかあります?」
「いや、もう奈美ちゃんに任せるよ」
健司は少し笑って、付け加えた。
「できたら、静かなところがいいかな。穴場みたいなところ」
「あ……じゃ、ちょっと考えますね。えっと、十時頃でいいですか? 出発」
「うん、大丈夫。ありがとう。楽しみだな」
その言葉に、奈美の返事は少しだけ上ずった。
「……は、はい」
自分でもぎこちない返事を残して、奈美は小走りに厨房へ戻った。
「お兄さん、行く気やったわ」
「そうか。ほな用意しといで」
「ほんまにええの? 私、おらんで」
「大丈夫やって。五時前には戻って来れるやんな?」
「そんなに遅ならんよ……ほな、用意してくるわ」
母にそう言って自分の部屋へ戻ったものの、急なことで慌てていた。
本当はシャワーを浴びたいところだが、あまり時間もない。とりあえず顔を洗い、鏡の前に立つ。
普段は化粧をしないが、今日は少しくらいは──と思ったものの、結局いつも通り、化粧水と日焼け止めクリームで整える程度にした。
髪はどうしよう。結ばないでおこうか。服はどうしよう。スカートにしようか。
いろいろ考えたものの、結局、髪も結び、Tシャツにパンツといういつもの姿だった。
考えてみれば、おしゃれに興味がなかったわけではない。だが、震災後ということもあり、遊びに行ったり出かけたりすることを控えているうちに、服を買うこともあまりなくなっていた。
今は家の手伝いで、外で働いているわけでもない。余計にそういうことから遠ざかっていたのかもしれない。
ふと奈美は、昨晩健司から聞いた父の話を思い出す。
父は、奈美が本当は島を出たがっていたことも、今もその気持ちをどこかで引きずっていることも、ちゃんとわかっているようだ。母も、奈美が今も祐介や島を出た人たちをどこか羨ましく思っていることに気づいているのだろう。
だからこそ、今日みたいに気を遣ってくれているのかもしれない。
そう思うと、行く気がないふりをするのも違う気がした。
せっかくなら、素直に楽しんでこよう──
奈美はもう一度鏡を見ると、小さく「よしっ」と呟いて部屋を出た。




