表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あたりまえの夕日  作者: 半田南都


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/14

第11話 虹色の時間


奈美の表情にもようやく笑みが戻る。


「苗字ね。あー……でも、名前でいいかな。僕も勝手に奈美ちゃんって呼んじゃってるし」


名前で呼び合うなんて──そう思った瞬間、顔が熱くなった気がして、奈美は少し俯いた。


少し前まで涙で濡れていた手の甲も、もうすっかり乾いていた。


まつ毛はまだ濡れているだろうし、目も少し腫れているかもしれない。けれど、胸の奥に溜まっていた重たいものは、さっきよりもずっと軽くなっている気がした。


父の気持ちを聞いたからだろうか。

本音を口にしても、健司が静かに受け止めてくれたからだろうか。


それとも、誰にも言えないものを抱えていたのは、自分だけじゃなかったのだと知れたからだろうか。


「あの……けっ、健司さんは、どうして東京に憧れてはったんですか?」


名前を呼ぶのが気恥ずかしくて噛んでしまったが、健司はそんなことを気にするふうでもなく答える。


「あー、何でかな。でもほら、そんなもんじゃない? テレビで見てるとキラキラしてる感じがして、都会に憧れるっていうか」


「それだけ?」


「うん。それだけ」


屈託なく笑う健司を見て、奈美は少し拍子抜けしたように息を吐いた。


「今日、同級生の男の子に、『やりたいことがあって島を出たいわけじゃないのか』って言われて……なんか、責められてるみたいな気がして」


すると健司は少し考えるように目を細めた。


「その子は多分、やりたいことがあって島を出たんだろうね。ちゃんと目的があって」


そこで少し言葉を切った。


「……その子って、さっき言ってた夕日が好きな子のこと?」


「うん」


「じゃあ逆に言うとさ、できるなら、彼はここに残りたかったのかもしれないよね」


健司もそうだったように、若者のほとんどは一度は都会に憧れるものではないだろうか。


奈美だってそうだ。

特にやりたいことがあったわけではない。ただ、この島にいたままでは、それを見つけることもできない気がしていた。


でも、祐介は違っていたのかもしれない。


『島出ていく理由ってひとつやないで。戻ってくるつもりで出ていく奴もおるしな──』


祐介の言葉を思い出す。


彼は、本当はここに残りたかったのではないだろうか。


そんな祐介にとっては、ここに残っている奈美の方が、むしろ羨ましく映っていたのかもしれない。


そう思うと、祐介に強く言ってしまった自分が情けなく思えた。


「その子って、奈美ちゃんの彼氏?」


急に聞かれて手を全力で横に振った。


「え!? ちゃいますちゃいます!」


言ってから、そこまで必死に否定しなくてもよかった気がした。


奈美は小さく息を吐いて、気を取り直すように言い直した。


「ほんと、ただの幼馴染で。彼女おるし。ずっと弟みたいな感じで──」


いや、祐介の方がずっと自分より大人だったのかもしれない。今の奈美には、そう思えた。


健司は少しだけ間を置いてから言った。


「彼とはまだ気まずいままなんだよね。奈美ちゃん、気にしてる感じだったし」


「え?」


「今日、僕がここで夕日見てたって話した時、ほかに誰かいなかったかって聞いてたじゃない。彼のことでしょ?」


「あ……」


健司はしっかり覚えていた。


「彼、いつ帰るの?」


「明日……」


「このままでいいの?」


「……」


「明日、帰る前に話する?」


「……うん」


健司に背中を押されるように、奈美は小さく頷いた。


本当は、このままではいけないと思っていた。けれど、どう向き合えばいいのかまでは、まだ整理できていなかった。


昼間、祐介に本音をぶつけた時は、行き場のない憤りと、言ってしまったことへの後悔だけだった。


それが今は、少し違う。感情だけではなく、その奥にあるものにも向き合える気がしていた。


あらためて、本音を伝えて──そして、謝ろう。

そう決めると、不思議と胸の奥が静かになった。


奈美はふと、隣にいる健司の横顔を見た。


この人は、明日にはもう大阪へ帰っていく。


たった二日間の淡路島で、この人は何を見て、何を感じたんだろう。

帰る頃には、この人の中に何が残っているんだろう。

夕日のことだろうか。

それとも、今こうして二人で話している、この時間だろうか。


さっきの会話を、どう受け止めているのだろう。

自分は健司との会話で気持ちが軽くなった。でも、この人も同じように、少しは何かがほどけたんだろうか──


自分のことでいっぱいいっぱいだったはずなのに、いつの間にか健司のことが気になっていた。


「……明日、帰るんですよね」


「うん。もっといたかったな」


少し遠くを見る目をして言う健司の心を、奈美は読めなかった。気持ちが軽くなったのか、それともまだ迷いがあるのか、そのどちらでもないような気もして、ただわからなかった。


それがわからないのは、自分がまだ大人になりきれていないからなのかもしれない。


けれど、健司もまた自分と同じように、迷いながらここにいる人なのだろう──そんな気がした。


五つ年上というだけで勝手に遠く感じていたけれど、こうして隣に座っていると、それほど遠い人には思えなかった。


全部をわかり合えなくても、わからないままでも、それでいいのかもしれない。


「フェリーで帰らはるんですか?」


別に意味があったわけではなく何気なく聞いた。


「うん。行きもね、船で来た。せっかく橋ができたからバスで来たかったけど、席取れなくて」


橋ができてまだ一か月。しかも初めての大型連休で、『世界一長い吊り橋』を見に来る人も多かったのだろう。新しい高速道路や大きなサービスエリアも話題になっていて、橋を渡ること自体が観光のようになっていた。


「奈美ちゃんはもう橋渡った?」


「ううん。まだ見てもいない」


そう答えて、自分でも少し驚いた。橋が完成して、島全体がお祭りみたいに浮き立っていても、奈美は見に行きたいと思わなかった。

本土が近くなったぶん、自分だけ取り残されたような気がしていたからだ。


祐介から橋の話をされた時も、感情的になって言い返してしまった。


でも今は、こうして自然に話ができている。


「フェリーからも橋よく見えました?」


「うん。結局ね、フェリーで来て正解だったかな。橋を見上げながら来れたからね。ずっと橋ばっかり見てたら、気がついたら島に着いてた感じ」


嬉しそうに話す健司を見ているうちに、橋に背を向け続けていた気持ちが、少しずつほどけていく気がした。


「橋のライトアップって、この時間もやってるのかな。ここからは見えないんだよね?」


明石海峡大橋は、この西海岸からは見えない。北の端、山の向こう側だ。


祐介が久美子と見たという橋のライトアップ。

テレビや雑誌でも話題になっていて、祐介に教えられるまでもなく、奈美もそのことは知っていた。


それに──


「今、何時かわかりますか?」


唐突に奈美がそう聞くと、健司は慌てて時計を見た。


「あ、もうすぐ十一時だ。ごめんね、こんな遅くまで──」


「ちょっと、いいですか? ……こっち」


健司が言い切る前に、奈美は立ち上がり海岸へ歩き出した。

健司はよくわからないまま、そのあとを追った。


防波堤まで来ると、奈美は北の空を指さした。


「ほら」


「あ……」


健司が目を向けると、山影の向こうに虹色の光がぼんやりと滲んでいた。


「天気がいい日は見えることが多いんです。この辺り、真っ暗やし」


見えないはずの橋のあたりだけ、空が静かに色づいている。


「普段は一色なんだけど、一時間に一回、ちょうどの時間だけ虹色になるんですよ。ほんの数分だけ」


ふと健司を見ると、静かに目を細めながら、その光を眺めていた。


「……橋は見えないけど、ちゃんとここまで届いてるんだね」


何気ない彼の言葉が、奈美の胸に静かに落ちていく。


奈美は時々、この場所に立ってこの光を見ていた。


橋は架かっているのに、自分にはぼんやりとした光しか見えない。

まるで、自分だけがそこへ辿り着けないみたいで苦しかった。

それなのに、天気のいい夜になると、なぜかまたここへ来てしまう。


けれど今は、その光が『届かないもの』ではなく、自分にもちゃんと繋がっているような気がした。


二人はしばらく黙ったまま、山影の向こうの光を見つめていた。


「……奈美ちゃん、ありがとうね」


健司が空を見上げたまま、ぽつりと言った。


「え?」


「ここに来て、よかった」


奈美の胸にふいに寂しさが広がった。


──明日になれば、この人は島を出ていく。


けれど同時に、その横顔を見ていると、健司もまた、抱えていた迷いを少しだけ手放せたように奈美には思えた。


奈美は小さく笑って、


「……こちらこそ」


とだけ答えた。


その時、空に滲んでいた虹色の光が、ゆっくりと深い緑色へ移っていく。


特別な数分間が終わり、光は静かにひとつの色へ戻っていった。


それでも、山影の向こうには確かに橋が架かっている。


波の音だけが静かに続く中、奈美はその光をしばらく見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ