第11話 虹色の時間
奈美の表情にもようやく笑みが戻る。
「苗字ね。あー……でも、名前でいいかな。僕も勝手に奈美ちゃんって呼んじゃってるし」
名前で呼び合うなんて──そう思った瞬間、顔が熱くなった気がして、奈美は少し俯いた。
少し前まで涙で濡れていた手の甲も、もうすっかり乾いていた。
まつ毛はまだ濡れているだろうし、目も少し腫れているかもしれない。けれど、胸の奥に溜まっていた重たいものは、さっきよりもずっと軽くなっている気がした。
父の気持ちを聞いたからだろうか。
本音を口にしても、健司が静かに受け止めてくれたからだろうか。
それとも、誰にも言えないものを抱えていたのは、自分だけじゃなかったのだと知れたからだろうか。
「あの……けっ、健司さんは、どうして東京に憧れてはったんですか?」
名前を呼ぶのが気恥ずかしくて噛んでしまったが、健司はそんなことを気にするふうでもなく答える。
「あー、何でかな。でもほら、そんなもんじゃない? テレビで見てるとキラキラしてる感じがして、都会に憧れるっていうか」
「それだけ?」
「うん。それだけ」
屈託なく笑う健司を見て、奈美は少し拍子抜けしたように息を吐いた。
「今日、同級生の男の子に、『やりたいことがあって島を出たいわけじゃないのか』って言われて……なんか、責められてるみたいな気がして」
すると健司は少し考えるように目を細めた。
「その子は多分、やりたいことがあって島を出たんだろうね。ちゃんと目的があって」
そこで少し言葉を切った。
「……その子って、さっき言ってた夕日が好きな子のこと?」
「うん」
「じゃあ逆に言うとさ、できるなら、彼はここに残りたかったのかもしれないよね」
健司もそうだったように、若者のほとんどは一度は都会に憧れるものではないだろうか。
奈美だってそうだ。
特にやりたいことがあったわけではない。ただ、この島にいたままでは、それを見つけることもできない気がしていた。
でも、祐介は違っていたのかもしれない。
『島出ていく理由ってひとつやないで。戻ってくるつもりで出ていく奴もおるしな──』
祐介の言葉を思い出す。
彼は、本当はここに残りたかったのではないだろうか。
そんな祐介にとっては、ここに残っている奈美の方が、むしろ羨ましく映っていたのかもしれない。
そう思うと、祐介に強く言ってしまった自分が情けなく思えた。
「その子って、奈美ちゃんの彼氏?」
急に聞かれて手を全力で横に振った。
「え!? ちゃいますちゃいます!」
言ってから、そこまで必死に否定しなくてもよかった気がした。
奈美は小さく息を吐いて、気を取り直すように言い直した。
「ほんと、ただの幼馴染で。彼女おるし。ずっと弟みたいな感じで──」
いや、祐介の方がずっと自分より大人だったのかもしれない。今の奈美には、そう思えた。
健司は少しだけ間を置いてから言った。
「彼とはまだ気まずいままなんだよね。奈美ちゃん、気にしてる感じだったし」
「え?」
「今日、僕がここで夕日見てたって話した時、ほかに誰かいなかったかって聞いてたじゃない。彼のことでしょ?」
「あ……」
健司はしっかり覚えていた。
「彼、いつ帰るの?」
「明日……」
「このままでいいの?」
「……」
「明日、帰る前に話する?」
「……うん」
健司に背中を押されるように、奈美は小さく頷いた。
本当は、このままではいけないと思っていた。けれど、どう向き合えばいいのかまでは、まだ整理できていなかった。
昼間、祐介に本音をぶつけた時は、行き場のない憤りと、言ってしまったことへの後悔だけだった。
それが今は、少し違う。感情だけではなく、その奥にあるものにも向き合える気がしていた。
あらためて、本音を伝えて──そして、謝ろう。
そう決めると、不思議と胸の奥が静かになった。
奈美はふと、隣にいる健司の横顔を見た。
この人は、明日にはもう大阪へ帰っていく。
たった二日間の淡路島で、この人は何を見て、何を感じたんだろう。
帰る頃には、この人の中に何が残っているんだろう。
夕日のことだろうか。
それとも、今こうして二人で話している、この時間だろうか。
さっきの会話を、どう受け止めているのだろう。
自分は健司との会話で気持ちが軽くなった。でも、この人も同じように、少しは何かがほどけたんだろうか──
自分のことでいっぱいいっぱいだったはずなのに、いつの間にか健司のことが気になっていた。
「……明日、帰るんですよね」
「うん。もっといたかったな」
少し遠くを見る目をして言う健司の心を、奈美は読めなかった。気持ちが軽くなったのか、それともまだ迷いがあるのか、そのどちらでもないような気もして、ただわからなかった。
それがわからないのは、自分がまだ大人になりきれていないからなのかもしれない。
けれど、健司もまた自分と同じように、迷いながらここにいる人なのだろう──そんな気がした。
五つ年上というだけで勝手に遠く感じていたけれど、こうして隣に座っていると、それほど遠い人には思えなかった。
全部をわかり合えなくても、わからないままでも、それでいいのかもしれない。
「フェリーで帰らはるんですか?」
別に意味があったわけではなく何気なく聞いた。
「うん。行きもね、船で来た。せっかく橋ができたからバスで来たかったけど、席取れなくて」
橋ができてまだ一か月。しかも初めての大型連休で、『世界一長い吊り橋』を見に来る人も多かったのだろう。新しい高速道路や大きなサービスエリアも話題になっていて、橋を渡ること自体が観光のようになっていた。
「奈美ちゃんはもう橋渡った?」
「ううん。まだ見てもいない」
そう答えて、自分でも少し驚いた。橋が完成して、島全体がお祭りみたいに浮き立っていても、奈美は見に行きたいと思わなかった。
本土が近くなったぶん、自分だけ取り残されたような気がしていたからだ。
祐介から橋の話をされた時も、感情的になって言い返してしまった。
でも今は、こうして自然に話ができている。
「フェリーからも橋よく見えました?」
「うん。結局ね、フェリーで来て正解だったかな。橋を見上げながら来れたからね。ずっと橋ばっかり見てたら、気がついたら島に着いてた感じ」
嬉しそうに話す健司を見ているうちに、橋に背を向け続けていた気持ちが、少しずつほどけていく気がした。
「橋のライトアップって、この時間もやってるのかな。ここからは見えないんだよね?」
明石海峡大橋は、この西海岸からは見えない。北の端、山の向こう側だ。
祐介が久美子と見たという橋のライトアップ。
テレビや雑誌でも話題になっていて、祐介に教えられるまでもなく、奈美もそのことは知っていた。
それに──
「今、何時かわかりますか?」
唐突に奈美がそう聞くと、健司は慌てて時計を見た。
「あ、もうすぐ十一時だ。ごめんね、こんな遅くまで──」
「ちょっと、いいですか? ……こっち」
健司が言い切る前に、奈美は立ち上がり海岸へ歩き出した。
健司はよくわからないまま、そのあとを追った。
防波堤まで来ると、奈美は北の空を指さした。
「ほら」
「あ……」
健司が目を向けると、山影の向こうに虹色の光がぼんやりと滲んでいた。
「天気がいい日は見えることが多いんです。この辺り、真っ暗やし」
見えないはずの橋のあたりだけ、空が静かに色づいている。
「普段は一色なんだけど、一時間に一回、ちょうどの時間だけ虹色になるんですよ。ほんの数分だけ」
ふと健司を見ると、静かに目を細めながら、その光を眺めていた。
「……橋は見えないけど、ちゃんとここまで届いてるんだね」
何気ない彼の言葉が、奈美の胸に静かに落ちていく。
奈美は時々、この場所に立ってこの光を見ていた。
橋は架かっているのに、自分にはぼんやりとした光しか見えない。
まるで、自分だけがそこへ辿り着けないみたいで苦しかった。
それなのに、天気のいい夜になると、なぜかまたここへ来てしまう。
けれど今は、その光が『届かないもの』ではなく、自分にもちゃんと繋がっているような気がした。
二人はしばらく黙ったまま、山影の向こうの光を見つめていた。
「……奈美ちゃん、ありがとうね」
健司が空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「え?」
「ここに来て、よかった」
奈美の胸にふいに寂しさが広がった。
──明日になれば、この人は島を出ていく。
けれど同時に、その横顔を見ていると、健司もまた、抱えていた迷いを少しだけ手放せたように奈美には思えた。
奈美は小さく笑って、
「……こちらこそ」
とだけ答えた。
その時、空に滲んでいた虹色の光が、ゆっくりと深い緑色へ移っていく。
特別な数分間が終わり、光は静かにひとつの色へ戻っていった。
それでも、山影の向こうには確かに橋が架かっている。
波の音だけが静かに続く中、奈美はその光をしばらく見つめていた。




