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あたりまえの夕日  作者: 半田南都


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第10話 ごめん


──何でこんなこと、この人に言ってしまったんやろ……。


気づけば視界がにじんでいた。

ぽたぽたと涙が、組んだ手の上に落ちていく。奈美はそれを止めることができなかった。


健司の表情を見ることができない。

周りの音が遠のいていく。

隣にいるはずなのに、彼の気配すら感じられない。


「……ごめん」


止まっていた波の音が動き出し、健司の声がした。


──謝らないで。


心の中で呟く。

昼間、祐介も同じように謝っていた。


──違う。


誰も悪くなんてない。ただ、相手の何気ない言葉を、自分の中で重くしてしまっただけだ。


祐介は何も知らなかった。ただ、事実をそのまま口にしただけだ。

それなのに、勝手に傷つき、意味を足してしまった。


健司だってそうだ。ただ景色を褒めただけなのに。

それだけのことを、自分の中で膨らませてしまった。


一人で勝手に悲劇のヒロインみたいになって、感情を抑え切れなくなってしまって──


「ごめんね」


健司がもう一度謝った。奈美は顔を上げることができなかった。

それでも健司は悪くないとだけは伝えたくて、奈美は下を向いたままか細い声を絞り出した。


「……何も知らん人に、あんな言い方してしまって……ごめんなさい」


健司はすぐには何も言わなかった。


俯いたまま、奈美はぎゅっと指先を握り締めた。


波の音が何度か通り過ぎたあと、やがて低い声が静かに聞こえた。


「……違うんだ」


「え?」


「知ってたんだ」


その言葉に、奈美が少しだけ顔を上げる。彼は海の奥を見つめるような目をしていた。


「奈美ちゃんが島を出たいと思っていること、お父さんから聞いて知っていたんだ……。知っていたはずなのに、責めるような言い方してしまって……」


──島を出たいと思っている。


奈美はその言葉を頭の中でゆっくり繰り返した。


島を出たいと思っていたことは、両親も知っている。もともとそのつもりだったし、応援もしてくれていた。


でも、父から「残ってほしい」と言われてからは、そのままの気持ちではいられなくなった。


島を出たい気持ちが消えたわけではない。

それでも奈美は、両親に余計な負い目を感じさせたくなくて、何も引きずっていないように振る舞っていた。


それなのに──


「島を出たいと思っている」という現在形の言葉が、やけに胸に残った。


それは、もう終わったはずの気持ちではなく、まだ心のどこかで続いていると見抜かれたような響きだった。


父は、奈美が本当はまだ揺れていることをずっとわかっていたのかもしれない。きっと母もそうだろう。


両親を安心させるつもりだった。

けれど、逆に余計な気を遣わせていただけだったのかもしれない。


祐介に対してもそうだ。島を出たい気持ちが残っているのに、自分で決めたことだから何とも思っていないのだと、そんなふうに見せていた。


本当の気持ちをちゃんと口にしないまま、勝手に傷ついて、こじらせていたのかもしれない。


そう思うと、不思議と涙が止まった。


悲しいというより、情けなさの方が大きかった。

ぐちゃぐちゃになっていた感情が一度静かにリセットされていくような気がした。


波の音だけが静かに続く中、健司が口を開いた。


「お父さんね、奈美ちゃんには苦労かけているけど、落ち着いたら好きなことさせたいって言っててね。だから今はまだ、島から出た友だちとの繋がりを断ち切らないようにしたいって」


奈美は島から出た友人とは、あまり会いたくないと思っていた。


だけど今の話を聞いて、祐介が顔を出した時に父が缶コーヒーを渡して引き留めたのは、そういう思いがあったからなのかと思った。


そんなことにも気づいていなかった自分が、少し恥ずかしくなる。


黙っていると、また健司が口にした。


「ごめんね」


だがその声には、さっきとは少し違う重さがあった。


「さっき、説教みたいなこと言ったけど……あれ、僕には言う資格なかったんだよね」


奈美が不思議そうに見ていると、健司は視線を少し外し、遠くを見た。


「奈美ちゃんが本当の気持ちを話してくれたのを聞いて、思ったんだ……僕も同じだって」


「……同じ?」


奈美の問いに、健司はゆっくりと続ける。


「僕ね、子どもの頃からずっと東京に憧れてて。地元の高校を出て関東の大学に行って。去年、念願の東京の会社に入ったんだ」


健司は星空を見上げるように視線を上げた。


「それが、この春から大阪に転勤になってね。たった一年で、憧れてた東京の生活が終わった」


小さく苦笑した。


「よくあることだって頭ではわかってた。最初は経験のための転勤や出向もあるって、そういうものだって──でも正直、納得はできなかった。なんで自分がって、今でも思ってる」


奈美はただ黙って聞いていた。


「それでも、それを誰にも言えなかった。愚痴もこぼせなくて、平気なふりをして……気づいたら、ストレスだけ溜まってた」


健司は視線を落とす。


「それで、少し逃げたくなったんだ。実家に帰ることも考えたけど、親に元気がない姿を見せたくなくてね。明るく振る舞うのもしんどいし」


小さく息を吐いて続けた。


「だからどこか行こうと思って。大阪から近くて、海があって魚が美味しい場所って考えて、淡路島にしたんだ──結局、どこか行こうと思った時に選んだのが、こういう場所なんだよね。焼津と同じような雰囲気のとこ」


少しだけ笑う。


「ガイドブック見て、電話して、決めたのも三日前で。連休でどこも満室だったんだけど、運よくここが空いてて」


そこで、健司はようやく奈美を見る。


「奈美ちゃんと、似てるでしょ。憧れていた場所があったり、周りに強がったり……」


少し間を置いて、ふっと肩を落として笑顔になる。


「……まあ、僕の方はただのわがままかもしれないけど。奈美ちゃんと比べるのも変だよね」


その言葉のあと、健司は小さく頭を下げた。


「……ごめん。偉そうなこと言う資格なんてなかった」


──大人って……


いや、違う。


大人だからこそ、思い通りにならないことが増えていくのかもしれない。

それでも同じように迷って、同じように逃げてしまうこともあるのだと、奈美は思った。


──悲劇のヒロインは、もうやめよう。


島に残ることを決めたのは自分自身だ。それは間違いない。

島を出たかった気持ちは、今も消えていない。でも、それだけじゃない。

ここに残っているからこその出会いや、楽しみもある。


──出会い。


そうだ。

この人と出会えたことにも、意味があるのかもしれない。


そう思った瞬間、奈美はふと気づいた。


健司の名前を知らない。


両親と話すときは「お兄さん」と呼んでいたから、それで済んでいた。

けれど本人を前にすると、その呼び方には少し抵抗があった。


「……あの、お名前、教えてもらっていいですか。すみません、忘れちゃって」


宿帳で見た気がするだけで、実はちゃんと覚えていなかった。


唐突な質問に、健司は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。


「あ、僕の名前ね。健司っていうんだ。健康のケンにツカサって書いて──」


その説明に、奈美は思わず小さく吹き出す。


「いや、あの、苗字……」


「え? あ! 苗字ね。はは……」


「ふふっ」


波の音だけが続いていた空間に、二人の笑い声が重なった。


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