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あたりまえの夕日  作者: 半田南都


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第9話 引き波


静かな夜の海に、波の音だけが続いていた。

沈黙の中、奈美はふと思い出したように健司へ顔を向ける。


「……野島断層見てから、どこか行ったんですか?」


「ああ、そのあとね、漁船乗ったんだよ」


「え? どこで? うちの船?」


奈美が目を丸くすると、健司は首を横に振った。


「いや、もっと南の方。保存館からバスで行った先に、大きい漁港があってね」


「……ああ、あっちか」


奈美は納得したように頷いた。


「そこで降りたんだ。で、漁師のおじさんがいてお喋りしてて——いい天気だから船で海に出たら気持ちいいだろうなって言ったら、『ちょっと乗せたるわ』って」


「ははは。ありそう」


思わず笑いながら、奈美はその様子を思い浮かべた。

気さくに声をかけてくる漁師と、嬉しそうについていく健司。


「その場にいたカップルにも声をかけてね。一緒にぐるっと橋の方まで乗せてくれたんだ」


当時はまだ、この辺りの漁港は遊覧船のように気軽に海を回るような船はなかった。

だからきっと、それはとても貴重で特別な体験だったはずだ。


「でね、もう少し遅い時間なら夕日が見れるし、日没は橋がライトアップされてもっときれいだったんだけどって言われてさ」


『夕日』と『橋のライトアップ』。


一瞬、祐介のことを思い出し、胸が少し痛んだ。


「漁港を出たのが四時頃でさ。夕日にはまだ早かったんだけど、そこからここまで歩いてたら途中で見れるかなと思って。帰りは海沿いを歩いてきたんだ」


「え? 結構遠いよ?」


「うん。一時間半……もっとかかったかな。普段あまり歩かないから、今もうパンパン」


足をさすりながら、健司は少し照れたように笑う。


「歩いてきた道、『サンセットライン』っていうんだね」


「ああ……県道ね」


奈美は小さく頷いた。


数年前、西海岸を南北に走る県道31号線に、『サンセットライン』という名前が付けられた。

播磨灘に沈む夕陽をイメージしたものらしい。


けれど奈美にとっては、今でもただの『県道』か『西浦の道』だ。

観光客向けの呼び名が、どこかよそよそしく感じられる。


橋ができてから観光バスも増え、復興工事や新しい建物の建設でダンプカーも頻繁に通っていた。

歩道もないその道を歩いてここまで戻るには、行き交う車に気を配る必要があったから、きっと楽ではなかったはずだ。


「でもさすがに、日が沈むにはまだ早くて、歩いてる間には見れなくてね。結局、ここに戻ってきてから防波堤に座って待ってたんだよね」


「そうまでして見たかったんですか?」


「うん。大きな夕日を見たくてね。都会では小さく感じちゃって」


奈美は思わず顔を上げた。


──ゆう君も同じこと言ってた。


「……あの、ほかに誰かいました? 夕日見てた人」


「え?」


「あ、いえ。いいんです」


思わず出た言葉をごまかすように、手を小さく振った。


「んー、いたかなぁ。海ばっかり見てて、あんまり気にしてなかったな」


健司の言葉に、奈美は視線を落として黙ってしまう。


「でも、見にくる人も多いだろうね。あんなきれいな夕日。見れて本当によかったよ。食事の時間には遅れちゃって悪かったけどね」


そう言って屈託なく笑う。


その笑顔に、奈美はすぐには言葉を返せなかった。


──みんな、そう言う。


観光客も、ゆう君も。


「確かにきれいかもしれないけど……」


気づけば、言葉がこぼれていた。

続けようとして、奈美は少しだけ間を置く。


「外から来た人とか、たまに島に戻って来る人には、そういうのが特別に見えるかもしれないけど……」


そこでまた、言葉が途切れる。

このまま続けたら、ゆう君の時みたいになる——そう思いながらも、奈美は言葉を飲み込めずにいた。


視線を落としたまま、無理に形を整えるように笑みをつくり、顔を上げる。


「毎日見てたら、何とも思わないようになるから……夕日が沈むのなんて、あたりまえだし」


健司と目が合う。

真顔の健司に見返されて、奈美の笑みがゆっくりと消えていった。


「奈美ちゃんさ……富士山、見たことある?」


「え?」


予想外の質問に、奈美は一瞬戸惑いながらも静かに答えた。


「……小学生の時に一度だけ。家族でディズニーランドに行った帰りに静岡に寄って、一泊して」


「どう思った? 富士山見て」


「思っていたよりずっと大きくて、びっくりしたのを覚えてる。きれいっていうより、圧倒された感じ。すごいなって感動して──」


そこまで言って、「あ……」と小さく息を漏らす。


「僕ね、静岡の焼津に実家があるって言ったよね。東京の大学に行くまで、ずっと住んでたんだけど、家から富士山がよく見えてね」


健司は少し遠くを見るように視線を移した。


「でも、毎日見てるとさ、何も感じなくなるんだよね。そこにあるのがあたりまえで」


──あたりまえ。


その言葉が、奈美の中にゆっくり沈んでいく。


「でも、上京してから気づいたんだ。朝、窓の外を見ても、あの山がない違和感に」


奈美は少し俯いたまま、黙って聞いている。

健司の言葉の先にあるものは、もうわかっていた。


「初めて帰省した時にね、変わらずそこにあるのを見てすごくほっとしたんだよ。見慣れてただけで、本当はずっとすごいものだったんだって、その時わかったんだよね」


奈美へと視線を戻し、ふっと微笑む。


「奈美ちゃんの夕日も、きっと同じなんじゃないかな」


──わかってる。


「毎日あるからあたりまえになるんだよね。でも、わざわざ足を止めて見る人がいるってことは、それだけ特別なものなんだと思う」


──わかってるんやけど。


「だから……そんなふうに言われたら、夕日がちょっとかわいそうな気がして」


奈美は視線を落としたまま、膝の上で組んだ手に力を込めた。

指先が、わずかに震えている。


「……東京に行って、初めてわかったんですよね」


絞り出すような、小さな声だった。


「え?」


「都会の夕日が小さいことも……富士山がすごいことも」


「ああ……うん」


「ゆう君は……島を出た同級生の男の子は……もともと、ここの夕日が好きで。だから、こっちに戻ってる間は夕日を見るのが楽しみだって。今日うちに来た時も、そんな話をしてて……」


健司は黙ったまま聞いている。


「私が、夕日なんてどこで見ても同じだって言ったら、あっちのは小さいって……私も向こうに行ったらわかるって、そう言われて……」


そこまで言って、感情が抑え切れなくなってしまった。


「でも……私はずっとここにおるんやから、わからへんやん……」


声が震えて途切れる。


「私だって……私だって、島を出てたらわかったんかもしれへん……でも、出れへんかってんから……」


波の音が奈美の震える声に重なっていた。

言ってしまってから、自分でも何を口にしているのかわからなくなる。


昼間、祐介にぶつけてしまった感情。

飲み込んだはずだったのに、また同じように溢れてしまった。


健司と楽しく話していたはずだった。

少し浮き立つくらいには、嬉しかったのに──

引いた波が戻ってくるように、気づけばまた、自分の中に溜まっていたものが言葉になっていた。


奈美は指先をぎゅっと握ったまま、しばらく顔を上げられなかった。


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