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【第4話】絹の葬列

 翌日の午後。

 王宮の南棟に位置する、白亜の『淑女のサロン』。


 ここは第二王女ベアトリスが主催する、社交界の最前線だ。

 選ばれた高位貴族の令嬢たちだけが足を踏み入れることを許される、華やかで残酷な女たちの戦場。


 だが今日の空気は、かつてないほどに淀み、異様な緊張感に包まれていた。


 原因は明確だ。

 集まった令嬢たちの派閥が、視覚的に真っ二つに割れていたからである。


 一方は、王家の伝統を重んじる保守派の令嬢たち。

 彼女たちが纏うのは、首元までがっちりと覆われた分厚く重苦しい特産絹のドレスだ。

 動くたびに、硬い布地が擦れ合う「ザリッ、ザリッ」という重鈍な音が響く。


 香水で隠そうとしても、分厚い布の下にこもった汗の匂いが、わずかに漏れ出ていた。

 コルセットで締め付けられた彼女たちは、浅い呼吸しか許されず、顔は薄ら赤く充血していた。


 だが彼女たちは、その息苦しさこそが「貴族としての格」であると信じ込み、傲慢に顎を上げていた。


 もう一方は、異端の天才デザイナーであるノア・イリスが仕立てた、軽やかで新しいシルエットの新素材ドレスを纏う革新派の令嬢たちだった。

 革新派の幾人かは、既にノアから新素材を受け取っていたのだ。

 今日のサロンは、その準備が完全に整った『発表の舞台』だった。


 部屋の奥。

 豪奢なソファに腰を下ろしたベアトリスは、扇の陰で冷ややかに目を細めた。


 静かな観察眼が、入り口の扉へと向けられている。

 昨日密約を交わした、あの得体の知れない共犯者のお手並み拝見。

 兄の利権を打ち砕く力があるのかを見極めるための舞台だ。


 ギィ、と。

 重厚な扉が開く音が、サロンの喧騒を断ち切った。


 現れたのは、聖女エリーゼ。

 彼女が一歩を踏み出した瞬間、保守派の令嬢たちから息を呑む音が聞こえた。


 彼女が纏っていたのは、常識を完全に破壊するドレスだった。

 異国の植物繊維と微量の精霊石の粉末が織りなす。

 精霊石の粉末が光を捉えるたびに、虹色に輝く布地。


 王室の専売制の対象である「絹」を巧妙に回避した、合法的な新素材。

 ノアは、専売制を法的に迂回することを、最初から計画していたのだ。


 歩くたびに微かな風を孕み、ふわりと軽やかに揺れる。

 特産絹の重苦しい衣擦れの音とは違う。

 天使の羽ばたきを思わせる、心地よい音色だった。


 周囲の空気が、彼女の圧倒的な美しさに制圧されていく。


「……お待ちくださいませ、聖女様」


 その空気を切り裂くように、一人の令嬢が進み出た。

 フェリクス王子の熱烈な支持者である、保守派の筆頭格の令嬢だ。

 彼女の背後には、同じく特産絹に身を包んだ数人の令嬢たちが付き従っている。


 彼女は分厚い特産絹のドレスを重々しく引きずりながら、傲慢に顎を上げた。


「いくら若い娘たちの間で流行しているとはいえ。

 王家が誇る由緒正しき特産絹をお召しにならないとは。

 品位に欠ける薄い布地を纏うなど、正気の沙汰とは思えませんわ」


 あからさまな非難。

 それは単なる個人の意見ではない。

 伝統と権威を盾にした、貴族社会特有の陰湿な同調圧力だ。


「我々貴族は、この重みある絹を纏うことで王室への絶対の忠誠を示しております。

 それを拒絶し、得体の知れない安物の布を纏うなど。

 聖女としての自覚、ひいては王室への忠誠を疑われますわよ」


 冷たい言葉の刃が、エリーゼの喉元に突きつけられる。

 周囲の保守派の令嬢たちが、一斉にエリーゼへと冷酷な視線を突き刺した。

 クスクスと、扇の陰から嘲笑が漏れる。


 ここで怯めば、彼女はただの『反逆者』として社会的に抹殺される。

 異端の存在として、再びあの薄暗い檻へと引き戻されるのだ。


 エリーゼの華奢な肩が、微かに強張った。

 長年刻み込まれた恐怖の反射だ。

 胸元の呪具が、王室への不敬に反応し、じわりと危険な熱を帯び始める。


(――落ち着きなさい、わたくしの可愛い小鳥)


 その瞬間。

 脳内に響く、氷のように冷たく、けれど甘く優しいヴィクトリアの声。

 彼女の意識が、内側からエリーゼの恐怖を分厚い毛布でくるみ込んだ。


 同時に、呪具の熱が、魂の繋がりを通じてわたくしへと逆流してきた。

 本来ならばエリーゼを罰するはずの灼熱。

 わたくしはそれを、意識的に自らの魂で『受け止めた』のだ。


 全身を焼かれるような幻痛。

 第3話の痛みから比べて、今日の痛みはさらに深い。

 呪具が放つ灼熱が、魂の奥底へと到達し、修復不可能な傷痕を刻み始めているのだ。


 だが、わたくしは痛覚をねじ伏せ、完璧な虚勢でエリーゼを抱擁し続けた。


 表に出ることはしない。

 今日は、エリーゼ自身の足で立たねばならない日だからだ。


(あのような重い鎧を自ら纏い、時代遅れの檻に閉じこもる哀れな女たち。

 彼女たちに、本当の『自由』の美しさを教えておやりなさい)


 ヴィクトリアの気高き肯定が、激痛の向こう側から、確かな熱としてエリーゼの魂に注ぎ込まれる。


 エリーゼは、自らの胸元に重くのしかかる呪具の熱を思い返した。

 十六年間、彼女を縛り付け、声を奪い続けてきた理不尽な重み。

 ヴィクトリアが今、自らを犠牲にして肩代わりしてくれているあの痛み。


 あの令嬢たちが誇る特産絹の重苦しさは、まさにあの呪具と同じだ。

 痛みに耐えることだけを美徳とする、古い鎖。


 その血の滲むような実感が、エリーゼの中に借り物ではない確固たる論理を組み上げた。


 エリーゼはゆっくりと深呼吸をした。

 怯えに揺れていた瞳から、迷いが完全に消え去る。


 彼女は一歩、サロンの中央へと進み出た。

 すべての視線が、舞台の主役である彼女に集中する。

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、極上の微笑みを浮かべた。


「品位に欠ける、とおっしゃいましたか?」


 静かで、凛とした声がサロンに響く。

 怯えて泣き出すとばかり思っていた保守派の令嬢が、予想外の反論に微かに眉をひそめた。


「ええ。私たちが着ているこの特産絹の重みこそが、

 長い歴史と、貴族としての誇りの重さそのものですわ。

 安易な流行に流されるあなたには、理解できないでしょうけれど」


「……歴史の重み。ええ、素晴らしい言葉ですわね」


 エリーゼは優雅に首を傾げた。

 そして、冷たく透き通るような声で事実を突きつける。


「ですが、その重みで自由に歩くこともできず、

 息苦しさに耐えることだけが『誇り』だというのなら。

 それは誇りではなく、ただの呪いですわ」


 言葉の刃が、令嬢の喉元に突きつけられた。


「神が私たちに与えたのは、痛みに耐えるための身体ではありません。

 自らの足で軽やかに歩み、美しく咲き誇るための自由です」


 彼女の纏う新素材が、窓からの光を反射して神聖な輝きを放つ。


「この軽やかな布地は、決して王家を蔑むものではありません。

 むしろ、私たち女性が古き重圧から解放され、

 新しい時代へと羽ばたくための、神聖な祝福なのです」


 周囲の令嬢たちの目に映るエリーゼの姿が、一層輝いて見える。

 新素材の軽やかな布地そのものが、彼女の論理の『正当性』を視覚的に証明しているかのようだった。


 完璧な論理と、圧倒的な美。

 特産絹の『重苦しさ』を明確な悪徳とし、新素材の『軽やかさ』を絶対的な正義へとすり替える見事な価値観の反転。


 その言葉に呼応するように、革新派の令嬢たちが一斉に感嘆の息を漏らした。

 スッ、スッと、次々に扇を軽く開いて示す。

 言葉ではなく、静かな身振りでの賛同だった。


 その熱を帯びた横波が、サロン全体の空気を確実に塗り替えていく。

 圧倒された保守派の令嬢たちの間にも、明らかな動揺が走った。


 完全に同意する令嬢。

 疑問を感じ始める令嬢。

 従来の立場を守ろうと必死に顔を背ける令嬢。


 全員が一度に変わるわけではない。

 だが、その確実で段階的な価値観のシフトが、古い権威の根底を揺るがしていく。


 彼女たちの視線が泳ぎ始める。

 自分たちが誇りとしていた特産絹が、急に醜い重りのように感じられ始めたのだ。

 息苦しさを誤魔化すように、次々と扇で自らの顔を隠していく。


 やがてサロンは、新しい美の正義の前にしんと静まり返った。


 保守派の筆頭令嬢は、最後の言葉を口の中で呑み込んだ。

 唇を噛み締め、拳を握りしめたまま、動けなくなっていた。

 敗北の瞬間を、身体が受け入れるまでの数秒間。


 周囲の令嬢たちの目に、強烈な熱と渇望が灯る。

 自分たちも、あの重い鎧を脱ぎ捨てたい。

 あの神聖な自由を手に入れたい。


 それは、古い王家の権威(特産絹)が、新しい流行の前に決定的な敗北を喫した瞬間だった。


 部屋の奥。

 その光景のすべてを観察していたベアトリスは、扇の陰で満足げに笑みを深めた。


 保守派の筆頭が沈黙し、革新派が熱狂的に支持に回ったこの瞬間。

 サロン全体の価値観が確実にシフトした。


 これで特産絹の王宮内での需要は劇的に減少するだろう。

 地方の貴族たちは、依然として伝統を守るかもしれない。

 しかし、王宮という最大市場を失えば、十分に致命的な打撃となる。


 予想を遥かに超える、鮮やかで残酷な手並み。

 あの聖女の背後にいる怪物は、紛れもなく『本物』だ。


 ベアトリスの指先が、ドレスの懐に忍ばせた黒い手帳を優しく撫でた。

 これを渡せば、自分もまた王族としての安全地帯を失う。

 だが、あの得体の知れない共犯者に賭ける。

 彼女の冷徹な知性が、ついにその決断を下した。


◆ ◆ ◆


 サロンの喧騒の中、令嬢たちに賞賛の言葉で囲まれながら、極上の微笑みを保つエリーゼ。


 彼女の奥底で、わたくしは静かに息を吐いた。

 呪具の熱を受け止め続けた魂の輪郭が、激しい鈍痛を伴って軋んでいる。

 だが、この痛みなど何の意味もない。


(よくやりましたわ、エリーゼ。完璧な勝利です)


 この子が自らの足で立ち、古い価値観を打ち砕いた。

 その誇らしい事実に、わたくしの魂は歓喜に震えていた。


 これで手札はすべて揃った。

 王室の経済を破壊する不可逆の流行。

 そして、あの王女がもたらす致命的な裏帳簿。


 あとは、あの無能な男を絶望のどん底へと引きずり下ろすだけだ。




(計画は完璧に進行していますわ。あの無能な男が社会的な『死』を迎えるまでの時間は、もはや砂時計の砂を数えるように測定可能)

(わたくしたちは、最も冷酷で優雅な形で、王家の終焉を演出してみせますわ)




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