表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

【第5話】黒革の裏帳簿

 夜の帳が下りた聖女の私室。

 分厚いマホガニーの扉が閉まった、その瞬間だった。


 ガクン、と。

 張り詰めていた糸が切れたように、エリーゼの膝が崩れ落ちた。

 ふかふかの絨毯に座り込み、荒い呼吸を繰り返す。


 新素材のドレスが擦れる、微かな音。

 彼女の華奢な肩は、小刻みに震えていた。


 サロンで保守派の令嬢たちを前に、一歩も引かずに立ち向かった代償だ。

 極度の緊張と恐怖を、彼女は自らの足で耐え抜いたのだ。


《……やりましたわ、ヴィクトリア様。私、逃げずに……》


(ええ。とても美しく、気高かったですわ)


 ヴィクトリアは意識の奥底から、震える小鳥を優しく抱擁した。

 温かな毛布でくるむように、その怯えを溶かしていく。

 エリーゼの心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。


 同時に、わたくしの魂にも削られるような熱い鈍痛が走っていた。

 限界まで意識を覚醒させ、呪具の熱を肩代わりし続けた反動だ。


 だが、その痛みを完璧な虚勢で奥底へと封じ込める。

 この愛おしい少女に、余計な心配をかけないために。


(……わたくしの存在は、ゆっくりと砂のように消えていく。あと何日もつか……不確定ですわ)

(さあ、深呼吸を。もうあの無能な男の視線は届きませんわ)

(ここは、わたくしたちだけの絶対の聖域です)


 エリーゼはゆっくりと頷き、肺に溜まった古い空気を吐き出した。

 彼女は鏡台の前に進み、ドレスの懐へと手を伸ばした。


 取り出したのは、ベアトリスから託された黒い手帳。

 重鈍な革の感触。

 古いインクと、埃っぽい紙の匂いが鼻腔をくすぐる。


 それは、ルミエール王家の腐敗が詰め込まれた死の宣告書だった。


 机の上に手帳を開く。

 ランプの温かな光が、分厚いページと数字の羅列を照らし出した。


(……なるほど。そういうことですのね)


 わたくしは、並んだ数字が示す致命的な事実に、冷たい笑みをこぼした。


 エリーゼの白い指先が、黄ばんだ紙をゆっくりと繰る。

 カサリ、カサリ。

 乾いた音が、静寂に満ちた部屋に響く。


 そこには、ルミエール王家の腐敗の結晶が詰まっていた。

 無数の数字と、暗号化された取引の記録。

 一見すればただの羅列だ。


 だが、完璧な王妃教育を受けたわたくしの目には、すべてが透けて見える。

 二つの意識が同時に、冷たい事実の並びを見つめ続けた。


《軍事費の異常な膨張。そして、使途不明の遊興費が多すぎますわ》


 彼女の視線が、不自然に膨れ上がった支出の項目をなぞる。

 夜会の開催、他国の愛妾たちへの贈る品、無意味な装飾品の数々。

 王家の愚かさが、そこに赤裸々に記されていた。


(ええ。そして最も致命的なのは、帝国に対するこの莫大な借金の額ですわ)


 わたくしは奥底で軋む魂の痛みを隠しながら、氷のように冷たく微笑んだ。


(無能なあの男は、年二回の利息支払いを乗り切るために。

 総税収の三十パーセントを占める特産絹の利益に、完全に依存しきっていますのよ)


 数字という絶対的な事実が、わたくしたちの勝利を裏付けている。

 ノアが革新派の主要な二十名に新素材を限定配布してから、約一ヶ月。


 はじめは小さな噂に過ぎなかった流行。

 それが徐々に模倣を生み、今日のサロンでついに全社交界で認知された。

 特産絹は「古くて醜い呪い」へと落とされたのだ。


 新しい価値観は、社交界の中心から周辺へと確実に波及していく。


 絹が売れなくなれば、王家の資金繰りは翌月にもショートする。

 暴力も魔法も使わず、ただ流行と美意識を操作するだけで。

 わたくしたちは、傲慢な王族たちの首に致命的な縄をかけたのだ。


《……フェリクス殿下は、どう動くでしょうか》


 不安ではない。純粋な盤面の先読みを求める、エリーゼの問い。

 相手の急所を的確に見抜こうとする、立派な共犯者の刃だ。


(無能な男の思考は、いつだって単純ですわ)

(あらゆる現実的な打開策が潰されたとき。彼が最後にすがりつくのは。

 神の奇跡という、見せかけの偶像だけですわ)


 ヴィクトリアの論理的な推論に、エリーゼも静かに同意する。


(近いうちに、必ず大きな祈りの儀式を企画するはず。

 あなたが聖女として、民衆の前で奇跡を披露するための舞台をね)


 窓の外で、秋の冷たい夜風が王宮の木々をざわめかせた。

 その暗闇の中で、エリーゼの思考にゾクッとするような冷たい光が宿る。


《……そこで、私たちが奇跡を起こさないとしたら?》


 わたくしは、愛おしい半身の残酷な提案に、歓喜の震えを覚えた。

 二人の魂が、狂おしいほどの熱量で共鳴し合う。


(ええ。神にすら見放された王家。その致命的な烙印を押してさしあげますわ)


 古い権威が音を立てて崩れ落ちる音が、確かに聞こえた気がした。

 だが、それだけでは足りない。

 完全に息の根を止めるには、市場を崩壊させる最後の一手が必要だ。


(さあ、わたくしの愛しき忠臣を動かすときですわ)


 わたくしの脳裏に、かつて自分に忠誠を誓ってくれた少女の顔が浮かんだ。

 あの血の夜、必死に言葉を飲み込んだあの賢い侍女。




 彼女が解き放つ見えない刃が、王家の喉元に突き立てられる。

 その瞬間は、もうすぐそこまで迫っていた。


◆ ◆ ◆


 王都の外れに位置する、質素な男爵邸。

 その薄暗い私室で、一人の少女がベッドの端に力なく座り込んでいた。


 かつてヴィクトリアの専属侍女を務めた下級貴族、アメリアだ。


 あの日、ヴィクトリアが処刑され、公爵家から絶縁された後。

 アメリアにはもう、あの家に残る理由も居場所もなかった。

 彼女はただ実家に帰り、抜け殻のように単調な日常をこなすだけの日々を送っていた。


 脳裏に蘇るのは、あの血の夜。

 冷たい大理石の床に広がった、濃い鉄の錆びたような血の匂い。

 悲鳴を上げようとしたアメリアを、ヴィクトリアは鋭い視線で射抜いた。


 お前だけは生き延びろという、不器用で優しい絶対の命令。

 その遺志に従い、彼女はただ己の命を繋ぐことだけを目標にしてきた。

 主の凄惨な死に絶望し、すべての感情に蓋をして。


 だが今日、奇跡が起きた。


 窓を叩く音。

 ノア・イリスの商会を通じて手配された、夜闇に溶けるように黒く塗られた伝書鳥。

 その鳥が置いていった、一枚の小さな羊皮紙。

 開いた手紙の末尾には。

 かつての主だけが使う、薔薇を模した隠し印が押されていた。


(……あの方は、生きている……っ!?)


 アメリアの胸の奥で、冷え切っていた心臓が激しく拍動した。

 だが同時に、強烈な混乱が押し寄せる。


(でも、どうして? あの夜、あの方は確かに私の目の前で血を吐いて……。

 幻? 誰かの罠? ……いや)


 大粒の涙が、震える頬を次々と伝い落ちる。

 理由はなんだっていい。どんな奇跡が起きたのかも関係ない。


(あの方が生きているなら。私がやるべきことは、ただ一つ……っ!)


 手紙には、古い暗号で短い指示が記されていた。

 ついに、反撃の刃を振るうときが来たのだ。


 アメリアは羊皮紙を暖炉の火にかざし、静かに焼き捨てた。

 彼女は涙を拭い、鏡の前で令嬢としての完璧な微笑みを作り上げる。


 下級貴族である男爵家には、高位貴族にはない特有の強みがある。

 王都の豪商たちとの直接的なパイプと、身軽な情報ネットワークだ。

 彼女は実家のつてを使い、王都の有力な商人たちが集う茶会へと足を運んだ。


「お聞きになりまして? 王宮のサロンで、特産絹が呪いの象徴だって嗤われたそうよ」


 優雅に紅茶を傾けながら、アメリアはよく通る声で囁いた。

 ただの平民の噂ではない。

 王宮の内部事情に通じた、元公爵家侍女からの『確度の高い情報』だ。


「それだけじゃありませんわ。王室の不徳のせいで、神がお怒りなのです」

「もう聖女様は、奇跡を起こせないそうですわ……」


 その言葉は、特産絹の需要激減に怯えていた商人たちの耳に、致命的な真実として響いた。


 アメリアの言葉は、数日で歪められ、大商会を通じて一気に拡散していく。

『聖女が奇跡を起こせない=王家が神の怒りを買っている=王家の産業(特産絹)も呪われている』

 この飛躍的な論理が、市場の参加者の間で急速に常識化してしまうのだ。


 商人たちの顔色が一瞬にして青ざめる。

 もちろん、この一つの囁きだけで王都全土の信仰が揺らぐわけではない。

 だが、これは恐るべき疑心暗鬼の『種火』だった。


 明日の朝、怯えた大商人たちが一斉に特産絹の取引を停止する。

 買い手がつかなくなった絹の価格は暴落し、その異常事態がさらなるパニックを呼ぶ。


 王都での買い控えは、馬車と商人の移動によって地方へと波及していく。

 一週間で全国の特産絹市場は、完全に凍結することになるだろう。


 アメリアは扇の陰で、狂おしいほど熱い微笑みを浮かべた。

 かつての気高き主が、よく浮かべていたあの極上の笑みを。

 解き放たれた見えない刃は、今まさに王家の喉元に突き立てられたのだ。


◆ ◆ ◆


 その情報は、王宮の諜報員を通じて、翌朝には王子の耳に入った。


 それから一週間後の、王宮の執務室。

 第一王子フェリクスは、次々と届く絶望的な報告書を前に顔を歪ませていた。


「なぜだ……! なぜ特産絹の注文が、全国で停止している!」


 苛立ちに任せて、重厚なマホガニーの机を激しく殴りつける。

 インク瓶が跳ね、黒い染みが重要な書類を汚した。


 総税収の三十パーセントを占める最大の資金源が、完全に途絶えたのだ。


 帝国に対する、年二回の利息支払いの期限が迫っている。

 だが国王からは『収入減など許さぬ、直ちになんとかしろ』という無責任な親書が投げつけられ。

 浪費家の王妃は『私の新しいドレス代はどうなるの』とヒステリーを起こすばかり。


 実質的に国庫のやり繰りを押し付けられているフェリクスは、王家の中で完全に孤立していた。

 この異常事態は、己の首が飛ぶことを意味している。

 国庫の底が抜けるような、絶望的な焦燥感がフェリクスを襲う。


「帝国大使に返済の延期を申し入れろ! 少し待てば立て直せるはずだ!」


 フェリクスの怒声に、財務の重臣が青ざめた顔で首を振った。


「不可能でございます! すでに帝国からの信用度は地に落ちております。

 大使からは、返答すら拒否されました!」


 フェリクスはギリッと奥歯を噛み締める。

 第一の絶望が、彼の足元を暗く染めた。


「ならば、王領の土地を一部売却しろ! それで当面の利息を払う!」


「廷臣たちが猛反発しております! 王家の切り売りなど断じて許さぬと!」


 第二の絶望。

 もはや国内の貴族たちすら、彼を助けようとはしない。


「くそっ……! ならば他国から新たに借金をするしかないだろう!」


「隣国からは、利息年二十パーセントという破滅的な条件を突きつけられました。

 これでは、国を売り渡すのと同じでございます……!」


 第三の絶望が、彼からすべての選択肢を奪い去った。

 彼が検討しうる手段を一つ一つ数えあげれば。

 すべてが、より悪い結果へと通じていたのだ。


 八方塞がりの盤面を突きつけられ、フェリクスの目は血走っていく。


「……こうなれば、あれを使うしかない。神の奇跡を」


 あらゆる手段を尽くした末に、無能な為政者が最後にすがりつく幻想。

 聖女の奇跡を民衆の目前で見せつけ、絶対的な権威を取り戻す。

 金で買えない信仰心を利用して、無理やり体制を維持する。


 すべての選択肢が塞がれた先に、彼は絶望的な決断を下した。

 自ら知らずに用意された破滅の罠へと進むために。




 彼はまだ知らない。

 自分が見下していた女たちが織り上げた、美しく残酷な葬列。

 その冷たい足音が、もう背後まで迫っているということを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ