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【第2話】月下の密約

 王宮の大広間が、水を打ったように静まり返った。

 先程まで優雅なワルツを奏でていたオーケストラの音が止まる。


 数百人の貴族たちの視線が、階段の上に現れた一人の少女――十六歳の聖女エリーゼに縫い付けられていた。


 無理もない。

 彼女が纏っていたのは、王家が強要する首元まで覆われた重苦しい特産絹のドレスではなかった。


 分厚く野暮ったい布地は無惨に引き裂かれている。

 しかし、その切り裂かれた断面すらも計算し尽くされた退廃的な美しさを放っていた。


 無駄な装飾を冷酷なまでに削ぎ落とし、滑らかな肩のラインと鎖骨を大胆に露出させた極上のシルエット。

 それは歩くたびに、神聖な後光のように揺らめいていた。


「エ、エリーゼ……!? なんだ、そのはしたない格好は!」


 広間の中央で、第一王子フェリクスの顔が屈辱と怒りで朱に染まる。

 常に自分に従順だった愛玩動物が、与えられた首輪を自らの手で引き千切って現れたのだ。

 彼の肥大した自尊心が、その事実を許容できるはずもなかった。


「今すぐ自室に戻り、着替えてこい! 恥を知れ!」


 フェリクスの鋭い怒声が、刃のように広間の空気を切り裂く。

 周囲の貴族たちからも、刺すような好奇と非難の視線が一斉に降り注いだ。


 ――怖い。


 あの日、王宮という名の檻に連れてこられてからずっと。

 少しでも王家の意に沿わなければ、胸元のペンダントが焼け焦げるような熱を発し、彼女の自由を奪ってきた。

 そのトラウマがフラッシュバックし、エリーゼの心臓が早鐘のように打ち鳴る。




 呼吸が浅くなり、華奢な肩が恐怖で震えそうになった、その瞬間。




(……耳を塞ぎなさい、わたくしの可愛いエリーゼ)


 脳内に、氷のように冷たく、しかし泣きたくなるほどに甘く優しい声が響いた。

 ヴィクトリアだ。

 彼女は内側からエリーゼの痛覚と恐怖の回路をすっと遮断し、その凍えるような魂を、自分の熱で厚く包み込んだ。


(あの愚か者たちの醜い怒声も、下品な視線も、すべてわたくしが代わりに受けてあげますわ。あなたは、ただ美しい音楽の余韻だけを感じていればよくてよ)


 エリーゼの魂が、ヴィクトリアの圧倒的な熱量を持つ庇護の中で、大きく見開かれた。

 それは、ただの痛覚の遮断ではない。


 生まれてから今日まで。

 誰一人として自分の痛みを見て見ぬふりをしてきたこの冷たい世界で。


 ただ一人、世界で一番気高く美しい人が。

 あなたには指一本触れさせないと、己のすべてを盾にして彼女を抱きしめているのだ。


《……っ、あぁ……》


 物理的な瞳からは一滴の涙も流れていない。

 しかしエリーゼの内なる魂は、その絶対的な安心感と救済に、声にならない声でむせび泣いていた。


 もう、一人ではない。

 どんなに恐ろしい世界でも、私の中には、私を誰よりも愛し、守り抜いてくれる同志がいる。


 怯えは完全に消え去り、確かな熱が宿る。

 彼女は階段をゆっくりと下りながら、フェリクスに向かって、かつて見せたことのない冷ややかで極上の微笑みを浮かべた。


(エリーゼ。ここは何も言わずに退くのが、最も美しい復讐ですわ。わたくしに合わせて動きなさい)


 ヴィクトリアの心地よい導きに従い、エリーゼは深く息を吸い込む。

 そして、王家の古臭い作法とは次元が違う、完璧で流麗な淑女の礼を披露した。


 一切の怯えがないその堂々とした姿に、フェリクスも貴族たちも息を呑み、呪縛されたように硬直する。

 沈黙の落ちた広間を、エリーゼは悠然と背を向けて歩き出した。


 モーゼの十戒のように貴族たちが道を開ける中、大理石を叩くヒールの音だけが響き渡る。

 彼女の圧倒的な気高さに気圧され、誰一人としてその歩みを引き留めることはできなかった。


 ――その光景を、広間の片隅から狂気的な熱量で見つめる男がいた。

 異端の天才デザイナー、ノア・イリスである。


「……あぁ、神よ。なんて……なんて美しいんだ」


 ノアの灰色の瞳から、無意識のうちに一筋の涙がこぼれ落ちていた。

 彼が泣いているのは、単なるエリーゼの容姿に対してではない。

 彼女が着ている概念に対してだ。


 王国の古い権威を象徴する、重く分厚い特産絹。

 それを物理的に引き裂き、全く新しい軽やかなシルエットへと再構築する知性と技術。


 しかしそれ以上に、ノアの魂を打ち抜いた事実がある。

 いつも王子の腕の中で怯えていた、あの生贄の小鳥が。

 自分を縛る古臭い檻を自らの手で壊し、圧倒的な気高さで世界を嗤っているという事実だった。


 あの怯えた少女の奥底に、あんな残酷で冷たい反逆の炎が眠っていたなんて、とノアは静かに戦慄した。

 いや、違う。

 彼女は一人で立っているのではない。見えない誰かの絶対的な愛に守られているからこそ、あんなにも誇り高く笑えるのだ。


 ノアは、周囲の令嬢たちの反応を鋭く観察した。

 彼女たちの目にあるのは、怒りや軽蔑ではない。

 自分たちを縛る重苦しいドレスへの不満と、あの軽やかで美しい姿への強烈な渇望だ。


「……時代が、変わる」


 古い王家の絹が死に、魂を解放する新しい美が世界を支配する。

 ノアは震える手で目元の涙を拭うと、足早に広間を去っていった。

 あの美しき反逆者の共犯者となるべく、滑るような足取りで後を追った。


◆ ◆ ◆


 喧騒から逃れ、夜風の吹き抜けるバルコニーへと出た。

 冷たい空気が、剥き出しになったエリーゼの白い肩を撫でる。

 甘い夜の薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。


「――素晴らしい。息が止まるかと思いましたよ、聖女様」


 ふいに、月明かりの落ちる暗がりから一人の男が現れた。

 ノア・イリス。

 彼はうやうやしく、けれどどこか熱に浮かされたような手つきで一礼する。


「王家が誇る重苦しい特産絹を、まさかそのように残酷なシルエットで引き裂いて再構築するとは。あの滑稽な王子殿下の顔……最高の芸術でした」


 暗がりから現れた得体の知れない男の不敬な言葉に、エリーゼは息を呑み、思わず一歩後ずさった。

 王子の差し金か。それとも、別の何者か。


(落ち着きなさい、エリーゼ。あの男の目を見ればわかるでしょう。あれは王家の犬ではありません。美の奴隷ですわ)


 ヴィクトリアの静かで絶対的な肯定感に触れ、エリーゼの波打つ心がスッと凪いでいく。


(あなたがもう二度とあの薄暗い檻に戻りたくないのなら、彼の才能を、あなたの武器にしなさい。さあ、顔を上げて)


 その優しい囁きに背中を押され、エリーゼは自らの意志で顔を上げ、ノアに向かって微笑みを向けた。


「お褒めにあずかり光栄ですわ、ノア・イリス。……ですが、これはほんの試作品。私が本当に纏いたいのは、あんな重苦しい絹の残骸ではありません」


 普段の可憐な聖女からは想像もつかない、芯の通った力強い声色。

 ノアの肩が微かに跳ね、その瞳が細められた。


「……ほう? では、この国で最も神聖なる小鳥は、何を纏うとおっしゃるので?」


「そ、それは……」


 一歩踏み込んだ質問に、エリーゼの言葉が一瞬詰まる。

 社交界の異端児であるノアの鋭い眼差しに、十六年間抑圧されてきた怯えが顔を出しそうになった。


(大丈夫。深呼吸して、わたくしの言葉をそのまま伝えなさい)


 ヴィクトリアの声が、内側からエリーゼの震える心を抱きしめるように響く。

 そして、経済と交渉の論理が、淀みなく脳裏へ流れ込んできた。


「……あなたが裏で密かに開発している、新しい布です」


 ノアの笑みがふっと消えた。

 エリーゼは、ヴィクトリアの導きをなぞるように言葉を紡ぐ。


「微量の精霊石の粉末を異国の植物繊維に練り込み、絹よりも遥かに軽く、安価に製造できる極上の新素材。

 ……素晴らしい発明ですが、王家が『特産絹』の専売制で市場を独占しているせいで。

 圧力を恐れた商会が扱わず、埃を被っているのでしょう?」


 風が吹き抜け、バルコニーの薔薇がざわめく。

 ノアの瞳に、明らかな警戒と、それを上回る強烈な好奇の炎が灯った。


「なぜ、深窓の聖女様がそんな裏の事情を? ……それに、まるで別人のようなその反逆者の瞳。あなたは一体、何者ですか」


 ノアの問いかけに、エリーゼは手すりに寄りかかり、眼下に広がる豪奢な王都の夜景を見下ろした。

 この美しく飾られた街の経済は、王家が独占する古い特産絹の利益と、私から搾取した精霊石の魔力によって回っている。


(……よく言えましたわ、エリーゼ。さあ、最後の仕上げです)


(専売制の対象はあくまで『絹』。植物繊維の新素材なら法に触れません。あとは圧倒的な『需要』を作り出し、市場を無理やりこじ開けるだけですわ)


 ヴィクトリアの極上の褒め言葉と完璧なロジックに、エリーゼの心に熱い火が灯る。

 この最後の言葉だけは、借り物ではない。

 自分自身の決意だ。


「ただの、籠の鳥に飽きた女です」


 エリーゼは振り返り、彼に向かってゆっくりと手を差し出した。


「ノア。あなたのその美しい新素材を、私が神聖なる流行として、この社交界の中心で大流行させて差し上げましょうか?

 法の抜け穴を突き、あの傲慢な男たちの首を真綿で締める、最高に美しく合法的な反逆です。

 ……乗りますか?」


 ヴィクトリアの気高き知性と、エリーゼ自身の二度と奪われないという覚悟が完全に融合した瞬間だった。


 沈黙が落ちる。

 ノアは恍惚とした吐息を漏らし、迷うことなくその場に片膝をついた。

 そして、差し出されたエリーゼの白い指先に、熱を帯びた唇を落とす。


「喜んで、共犯者になりましょう。我が美しき反逆の女神よ」


 月光の下、古い王家を経済と文化から破壊するための、決定的な密約が交わされた。


◆ ◆ ◆


 ノアとの月下の密約から、わずか数週間。

 王都の社交界は、かつてない熱狂の渦に包まれていた。


 発端は、あの夜会でエリーゼが纏った斬新なドレスのシルエット。

「聖女様がお召しになっていた、あの美しいデザインは一体何?」

 令嬢たちの間で沸騰する疑問に対し、絶妙なタイミングで異端の天才ノア・イリスの新作発表が行われたのだ。


 微量の精霊石を練り込んだ新素材。

 それは王家が専売する分厚い特産絹とは比べものにならないほど軽く、そして安価だった。


 何より清らかな聖女が古い殻を破ったという事実が、重苦しいドレスに抑圧されていた令嬢たちの心に、強烈な免罪符を与えた。

 瞬く間に特産絹の注文は激減し、ノアの新素材ドレスが社交界を席巻し始めたのである。


「エリーゼ! 一体どういうつもりだ!」


 王宮の庭園。

 優雅な茶会の席で、第一王子フェリクスが苛立たしげにテーブルを叩いた。

 彼の目の前に座るエリーゼは、今日も軽やかで美しい新素材のドレスを身に纏い、涼しい顔で紅茶を傾けている。


「君があんなはしたないドレスを着たせいで、他の令嬢たちまで王家の特産絹を着なくなった! ただでさえ国庫が厳しいというのに、絹の売り上げが落ちて大損害だ!」


 フェリクスは血走った目でエリーゼを睨みつける。


「聖女としての自覚を持て。今すぐあの布の使用を公式に禁じ、王家の絹こそが至高であると宣言するんだ!」


 王子の怒声。

 かつての彼女なら、その大声と胸元のペンダントの熱に怯え、すぐに泣いて謝惑していただろう。

 しかし今、エリーゼの心は鏡のように静かだった。


(……滑稽ですわね。自らの政策で国を潤せない無能な男ほど、女に責任を押し付け、大声で縛り付けようとする)


 脳内に響く、ヴィクトリアの冷たくも甘い嘲笑。

 その絶対的な余裕が、エリーゼの魂を優しく包み込み、確かな熱を与える。


(エリーゼ。哀れな王子殿下に、新しい流行を教えて差し上げなさい。深呼吸して、まっすぐにあの男の目を見るのです)




 ヴィクトリアの温かい言葉に背中を押され、エリーゼはふわりと極上の微笑みを浮かべた。




 手にしたティーカップを、音も立てずにソーサーへと置く。

 陶器の重い音が、フェリクスの言葉を遮った。


「……フェリクス殿下。私に、嘘をつけとおっしゃるのですか?」


「なに?」


「あの重く苦しい特産絹よりも、この新しい布のほうがずっと美しく、素晴らしい。それは令嬢たちの誰もが肌で感じている真実ですわ」


 フェリクスの顔が、怒りと戸惑いで微かに歪む。

 エリーゼはヴィクトリアから流れ込む論理を、自らの毅然とした声に乗せて放った。


「それを『禁じる』などと宣言すれば、どうなるかおわかりですか?

 王室は『美しささえ理解できない時代遅れの象徴』だと、社交界中の嗤いものにされてしまいます。

 ……殿下は、そんな無粋なピエロになりたいのですか?」


(よく言えましたわ、エリーゼ。完璧な反撃です)


 ヴィクトリアの過保護な称賛に、エリーゼの胸の奥が誇らしく高鳴る。

 フェリクスはピエロという言葉に痛いところを突かれたのか、反論の言葉を見つけられず、ただ屈辱に顔を朱色に染めてわななっていた。


 剣も魔法も使わない。

 ただ美しさと流行を操作するだけで、王家の最大の資金源である特産絹の専売制は、確実に崩壊の足音を立て始めていた。


《……ええ、ヴィクトリア様。私、もう二度とこの男には屈しないわ》


 これはまだ、彼女たちが仕掛ける美しき反逆の、ほんの序章に過ぎない。




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