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【第1話】処刑された悪役令嬢は、憎き聖女の心の中で目を覚ます

 眩いシャンデリアの光と、優雅なオーケストラの調べ。

 王立学院の卒業を祝う華やかな夜会は、わたくしが冷たい大理石の床に膝をつかされた瞬間、水を打ったように静まり返った。


「ヴィクトリア・ヴァン・ローゼンベルク侯爵令嬢。三日前の茶会にて、我が愛しき聖女エリーゼの紅茶に毒を盛ったな」


 第一王子フェリクスの冷ややかな声が、広間に響き渡る。


「王国の象徴たる聖女への危害は立派な王家への『反逆』であり、お前のような冷酷な女は調和を乱す害悪でしかない」


 彼は傲慢に見下ろしてきた。

 その腕の中には、王国の象徴たる十六歳の聖女エリーゼがすっぽりと収まり、ひどく怯えたように身を縮めていた。


 わたくしは、冷え切った唇の端で声を出さずに嗤った。

 聖女の暗殺未遂など、三流の作り話だ。


 本当の罪は、王家の腐りきった『裏帳簿』に気づき、それを正すための完璧な財政改革案を叩きつけたこと。

 無能な彼にとって、正論を突きつける女の存在そのものが恐怖であり、殺したいほどに憎い、目障りな脅威なのだろう……。


「王家への反逆罪は、本来なら一族郎党すべて市中引き回しの上で斬首だ。だがヴァン・ローゼンベルク公爵は王家への永遠の忠誠を誓い、お前との絶縁を申し出た」


「よって今この場で婚約を破棄し、お前一人に死を賜る」


 王子は愉悦に満ちた笑みを浮かべる。

 フェリクスが指を鳴らすと、従者が美しく透き通った致死量の赤ワインを運んできた。


「嘘です……っ! お嬢様は、そんなこと……!」


 広間の隅で、幼い頃からわたくしを慕ってくれていた専属の侍女、アメリアが、涙ながらに悲鳴を上げかけた。

 わたくしは即座に氷のような視線を彼女に向け、その声を無理やり飲み込ませた。


 ここで王家に逆らえば、ただの侍女である彼女の命はない。

 せめてこの聡明で忠義に厚い少女だけは、絶対に巻き込んではならないのだ。


 王妃として彼と共に歩み、国を支えるため、十年間すべてを殺して真っ直ぐに向き合ってきた。

 だが、わたくしの血を吐くような努力も、不器用な思いやりも。


 目の前の男には、最初から何一つ届いてなどいなかったのだ。

 さらに実の父親すらも、一族の保身のためにあっさりとわたくしを切り捨てた。


 周囲の貴族たちが向ける嘲笑も憐れみも、もはや遠い羽音のようにしか聞こえなかった。

 誰も愛してはくれなかった。誰もわたくしの本当の姿を見ようとはしなかった。

 もはや、この愚かで醜い世界に微塵の未練もない。


 完全なる虚無と氷のような諦観を抱きながら、わたくしは背筋を真っ直ぐに伸ばしてグラスを手に取る。


 だがそのとき、王子にすがる聖女の瞳だけが、激しく震え、悲痛に歪んでいることに気がついた。

 彼女は、胸元の星型の銀のペンダントを、手のひらに血が滲むほど強く握りしめている。


 声にならない悲鳴が、その表情から読み取れた。


 わたくしを陥れ、勝利したはずの女。

 それなのになぜ、まるで魂が血の涙を流しているかのように、あんなにも絶望した瞳をしているのか。


(……まあ、いいでしょう)


 疑問を抱きながらも思考を打ち切り、致死の赤ワインを一息に飲み干した。

 突如として、肺を内側から焼き焦がすような凄まじい激痛が爆発する。


 喉の奥から、鉄の錆びたような濃い血の味が込み上げてきた。

 大量の赤い飛沫が、白い大理石の床を汚す。


 全身の神経が千切れる死の苦しみの中、視界がぐにゃりと歪んで永遠の暗闇へと落ちていく。

 最後に網膜に焼き付いたのは、誰にも愛されなかったわたくしに向かって、必死に手を伸ばす聖女の姿だった。


◆ ◆ ◆


 ふわりと、甘い百合の香りがした。

 永遠に続くと思われた暗闇の果てで、意識が深い水底から浮上してくる。


 重たいまぶたを開けると、見覚えのない豪奢な天蓋が視界に広がった。


 身体を起こそうとして、強烈な違和感に気づく。

 わたくしの精神は冷静なのに、心臓は早鐘のように鳴り、両目からは制御不能な涙が溢れ落ちている。


 視界が勝手に揺れ、ふらふらと鏡台の前に歩み寄った。

 そこに映っていたのは、血の飛沫を浴びた夜会服を着たまま泣き崩れる、憎きエリーゼの姿だった。


「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、ヴィクトリア様……!」


 鏡の前の少女が、わたくしの名を呼んで嗚咽を漏らす。




 その瞬間、エリーゼの記憶の断片が激烈な頭痛とともに、わたくしの脳髄へと濁流のように流れ込んできた。




「母親の命を救いたければ、大人しく神の奇跡を起こせ」


 無慈悲な声とともに、平民の村から王宮へと無理やり連れ去られた記憶。

 冷たい石室に閉じ込められ、血を吐くまで魔力を絞り出させられた記憶。


 そして逃げ出そうとしたある日、無理やり首に装着された星型の銀のペンダント。


 その『呪具』が皮膚を焼くような生々しい熱と痛みが、わたくしの魂を直接焼いた。

 それは王家に不都合な言動をとるたびに灼熱を発し、自由意志と声を強制的に焼き切る鎖だった。


 あの夜会の場で彼女が震えていたのは、わたくしを陥れて勝ち誇っていたからではない。

 呪具のせいで真実を叫ぶこともできず、無実の人間が死ぬのを止められない絶対的な無力感に泣いていたのだ。


 わたくしは彼女の記憶の最深部に触れ、思わず息を呑んだ。


《神様、どうか……! ヴィクトリア様は無実です!

 あの方は誰よりも気高く、ご自身の足で立っておられた。

 誰の言いなりにもならないあの方の強さは、人形のような私にとって、ずっと、ずっと憧れの光だったのに……っ!》


 呪具の灼熱が彼女の手のひらと喉を焼き、声を奪ってもなお。

 彼女は血の滲む心で、ただひたすらにわたくしへの憧憬と助命を祈り続けてくれていたのだ。


 わたくしの奥底で、分厚い氷の壁が音を立てて崩れ落ちていく。


 完璧を求められすべてを捧げたのに、最後は切り捨てられた孤独な十年間。

 誰もわたくしの本当の努力など見てはいなかった。


 それなのに、この哀れでいじらしい少女は、自分以外の誰かのため血の涙を流し、祈り続けてくれた。

 誰にも愛されなかったわたくしの孤独な背中を、ただ一人、憧れの光だと呼んでくれたのだ。


 その事実が、凍りついていたわたくしの魂を、芯から激しく焼き焦がしていく。


 気がつけば、実体のない魂が熱く震え、声もなく泣いていた。

 これまで誰にも抱いたことのない、身を焦がすような圧倒的な愛憐と『庇護』の欲求の爆発。




(もう大丈夫よ。あなたを縛る痛みは、わたくしがすべて代わりに引き受けてあげる)




 実体を持たない魂の波長だからこそ、物理的な呪具の魔力回路に内側から干渉できるはず。

 そう考え、わたくしは、ペンダントを強く握りしめる彼女の右手に、優しく自らの意志を割り込ませた。


 内側から彼女の痛覚を遮断し、乱れた呼吸を強制的に落ち着かせる。

 強張っていた彼女の指先が、ぴたりと止まった。


 鏡に映るエリーゼの肩が跳ね、涙に濡れた琥珀色の瞳が大きく見開かれる。


「だ、誰……!? どこから話しかけているの……っ!?」


(――処刑されたはずのヴィクトリアですわ。気がつけば、わたくしの魂はあなたの心に宿っていたようなのです)


 脳髄に直接語りかけるように応えると、彼女は涙に濡れた顔を覆い、再びボロボロと泣き崩れてしまった。


 ずっと憧れていたわたくしの魂が存在していたことへの歓喜。

 そしてそれ以上に、己の無力さで死なせてしまったという強烈な自責の念に押し潰されるように。


「ごめんなさい……! 私が真実を言えなかったばかりに、ヴィクトリア様が……っ」


(わたくしを殺したのはあなたではなく、あの傲慢な王子です)


 そう伝えて、彼女の右手に再び己の意志を重ねて『ペンダント』から乱暴に引き剥がした。


(そのペンダントは、王家に反する言葉を熱で封じ、都合の良い人形に変える醜悪な『呪具』です。今はわたくしの魂がその輪郭を取り囲み、支配信号を完璧に分断しています)


《でも、これは王妃様からいただいた、尊い聖女の証で……》


(そう教え込まれてきたのね。ですが、もう自分を騙すのはおやめなさい)


 わたくしの静かな指摘に、エリーゼの瞳が大きく揺れた。


(あなたがずっと感じていた痛みと息苦しさは、神の試練などではありません。王家の悪意による洗脳ですわ)


《……嘘、だって、ずっと痛かったのに……痛いって泣いても、聖女の試練だから耐えろって、誰も助けてくれなくて……っ!》


 残酷な真実を突きつけられた瞬間、エリーゼの内側から堰を切ったような深い悲哀が溢れ出した。

 ずっと痛かったのだと、怯える彼女の魂がすがりついてくる。


 わたくしは心の奥底でうずくまる世界で唯一の半身を、温かいヴェールで包み込むように抱きしめた。

 もう二度と、誰にも彼女を傷つけさせないという絶対的な誓いとともに。


(気が済むまで泣きなさい、エリーゼ。そして明日からは、わたくしたちでこの腐りきった檻を優雅に壊しましょう)


◆ ◆ ◆


 王宮という名の檻に囚われてからずっと意思を奪われてきた彼女の心は、すぐには反逆の恐怖を乗り越えられなかった。

 その夜、エリーゼはわたくしの絶対的な『庇護』の温もりに安堵しながら、深い眠りへと落ちていった。


 それから数日の時間が流れた。


 夜会の後、呪具の防衛本能による無意識の命令に縛られ、侍女たちも彼女の部屋に近づくことはなかった。

 十六年間も孤独な静寂を強要されてきたその時間が、今はわたくしたちが対話を重ね、『魂の繋がり』を深めるための絶対的なゆりかごとなった。


 怯えていたエリーゼの心に、少しずつ王家に対する真っ当な怒りが芽生え始めているのを確かに感じる。

 そして迎えた、新たな夜会の日。


 そこへフェリクス王子が、首元までがっちりと覆われた重苦しい純白のドレスを送りつけてきた。

 王家の『特産絹』を使った、貞淑さと従属を強要する窮屈な代物だ。


「よく似合っているよ、僕の愛らしい小鳥。あのヴィクトリアのような可愛げのない女とは違って、君は本当に従順で美しい」


 扉越しに響く、視察に訪れたフェリクスの傲慢な声を聞いた瞬間。




 ——エリーゼの心の中に、かつてないほどの激しい炎が燃え上がった。




 自分を唯一理解し、痛みを肩代わりして守り抜いてくれる大切な半身。

 不当に殺しておきながらまだ見下そうとする無能な男への、明確で強烈な怒りと決死の覚悟。


 フェリクスが去った後、自室に残されたエリーゼの瞳からかつての怯えは消え去り、確かな熱が宿っている。


「私、何をすればいいですか」


(まずは、その見苦しいペンダントを服の下に隠しなさい。今外せば薄汚い王家はすぐに異変に気づきますわ)


(いずれ一番残酷な形で、あの男の足元に叩き返してやりましょう)


 わたくしの指示に、エリーゼは深く息を吸い込み、こくりと頷いた。

 冷たい銀の呪具をドレスの奥深くへと隠す。


(わたくしたちの『反逆』は、その傷ついた小鳥の『皮を脱ぎ捨てる』ことから始まりますわ。机の上のペーパーナイフを取りなさい)


 躊躇いはもう微塵もなかった。

 彼女はペーパーナイフを強く握りしめると、自分を縛り付けていた重苦しい『特産絹』の胸元へと、思い切り刃を突き立てる。


 ――ビリィッ!!


 静まり返った寝室に、分厚い布地が残酷に引き裂かれる音が響き渡った。


(そこの裾はもっと短く。鎖骨のラインは大胆に見せなさい。王家の古臭い権威など、鼻で笑うように)


 わたくしの的確な指示に従い、エリーゼは純白の絹を次々と切り落としていく。

 美しさとは古い枠を壊すことから始まる。


 床一面に純白の残骸が散らばった後、極上のシルエットのドレスを纏い、鏡の前に立った十六歳のエリーゼは、もはや怯える籠の鳥などではなかった。


(剣や魔法などという野蛮なものは使いませんわ。ドレスの裾と扇の陰の噂話という『流行』と『経済』で、傲慢な王族たちを資金源から干上がらせてやりましょう)


「ええ。ヴィクトリア様と一緒なら……私、もう二度とあの檻には戻りません」


 鏡の中のエリーゼと、彼女の奥底に潜むわたくしは、同時に最高に美しく冷ややかな微笑みを浮かべていた。

 これから始まるのは、二人の女が仕掛ける華麗で残酷な復讐劇。


 明日の夜会。そこが、わたくしたちが王家を『美しく嗤う』最初の舞台となる。


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