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追放された貧乏伯爵家の在庫係、余り物に触れると『次の持ち主』が見えるので倉庫から領地を救います  作者: 花守りつ


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5/12

荷運び少年の空白賃金札

リタが焼いた朝一番の丸パンは、まだ湯気を立てていた。


 孤児院行きの籠、診療所行きの粥鍋、通り売り用の小さな布包み。それぞれに受領札が結ばれ、パン屋の裏口には荷車が一台止まっている。


 荷車の横で、少年が腹を押さえて立っていた。


 年は十二、三ほど。肩にかけた縄は細い腕に食い込み、靴の片方は爪先が割れている。けれど、荷台の布はきちんと二重にかけられ、籠の角には雨避けの油紙まで挟まれていた。


「ルカ、まだ帰っていなかったのかい」


 パン屋の女将が声をかけると、少年は慌てて背筋を伸ばした。


「帰りたいです。でも、賃金札が……」


 少年――ルカは、折れ曲がった小さな札を差し出した。


 荷運び少年。


 臨時扱い。


 賃金欄、空白。


「荷は届いたんだろう?」


 昨日から居座っている臨時帳簿係が、帳簿を閉じもせずに言った。


「孤児院も診療所も受領印を押している。配送は完了だ。名前欄がない者の賃金は、後日まとめて王都商会へ精算する」


「でも、僕の帰りの荷車席がありません。次の配送札だけ渡されて……」


「臨時とはそういうものだ。仕事があるだけありがたいと思え」


 ルカは唇を噛んだ。


 その様子を見て、リタが窯口から一歩出た。さっき自分の朝番を取り戻したばかりの少女は、まだ煤のついた手でパン籠を抱えている。


「その子、朝一番の粉を運んでくれました。診療所の薬鍋も濡らさないように、荷台の奥へ入れて」


「証言は不要だ。荷物の受領印があれば十分だ」


「十分ではありません」


 ミラは、ルカの賃金札を受け取った。


 紙は薄く、端が何度も握られて白くなっている。けれど空白の賃金欄だけは、妙にきれいだった。


「配送完了とは、荷物が着いた時ではありません」


 ミラは札を作業台へ置き、荷札、孤児院の受領札、診療所の受領札、門番の通行控えを順に並べた。


「運んだ人が、名前で賃金を受け取り、帰れるところまでです」


 臨時帳簿係が鼻で笑う。


「在庫係が、今度は人間の棚卸しか」


「はい」


 ミラは、迷わず答えた。


「人の一日を空白にしたまま閉じる帳簿なら、棚卸しが必要です」


 ルカの賃金札に指を置く。


 ざらり、と紙の繊維が鳴った。


 視界の端に、断片が浮かぶ。


 ――夜明け前、粉袋を濡らさないように荷台の中央へ寄せるルカの手。


 ――診療所前で、薬鍋の蓋を片手で押さえながら受領印を待つ背中。


 ――孤児院の門で、小さな子が「ルカ兄ちゃん」と呼ぶ声。


 ――帰り道の北門。荷車席の名札だけが外され、次の配送札が無言で押しつけられる。


 ――賃金台帳の空白欄へ、黒い荷印が押される。


 ミラは息を吐き、目を開けた。


「荷物は届いています。でも、運んだ人だけが届いていないことにされています」


「意味の分からないことを言うな」


「意味は分かります。荷物の受領印で配送費を受け取り、運び手の名前を空白にすれば、人件費だけを余剰にできます」


 作業台の上で、ミラは札を一枚ずつ指した。


「粉袋三つ。診療所の粥鍋。孤児院の朝食籠。すべて同じ通行時刻、同じ荷車番号です。門番控えには、荷車を押した少年の名が残っています。ルカ・ミル」


 ルカが小さく肩を震わせた。


「僕の名前、そこに……」


「残っています。消し忘れではありません。消してはいけない名前です」


 リタがパン籠を台へ置いた。


「私も証人になります。朝一番の粉を運んだのは、ルカです。粉が遅れていたら、孤児院の十五食は焼けませんでした」


 診療所から戻ってきた薬師テオも、受領札を差し出した。


「粥鍋を濡らさなかった。熱の子に出す薬前の粥だ。彼の運び方が荒ければ、今朝の薬は遅れていた」


 臨時帳簿係の顔色が変わる。


「臨時名簿に名前がない者へ、賃金は出せない」


「名前がないから賃金がないのではありません」


 ミラは、空白だった賃金欄の横に仮札を置いた。


 荷運び、ルカ・ミル。


 粉袋三、粥鍋一、朝食籠二。


 半日賃金、銅貨六枚。


 帰宅荷車席、北門二番。


 次配送、本人確認後。


「賃金を消すために、名前を外したんです。この空白は未雇用の印ではありません。未払いの証拠です」


 パン屋の女将が、銅貨六枚を数えて仮札の上に置いた。


「うちの責任印で仮払いする。後で正式に請求するよ。荷物だけ届いて、荷運びが帰れない朝なんて、うちのパンの受領とは言わせない」


 ルカは銅貨を見つめたまま、すぐには手を伸ばせなかった。


「……もらって、いいんですか」


「働いた分です」


 ミラは仮札を少年の手元へ押した。


「それと、帰りの席も。今日は、荷物だけでなく、荷運びも帰します」


 ルカの目が赤くなった。


 それでも少年は泣かなかった。銅貨を握りしめ、少しだけ顔を上げる。


「僕、次も運べます。でも、名前を書いてから受けたいです」


「それが正しい順番です」


 ミラは賃金台帳に青い仮保留印を押した。


 空白は埋めない。


 消さない。


 空白の横に、ルカ・ミルの仮札番号と証人名を写す。


 すると、台帳の下段に並んだ同じ黒荷印が見えた。


 一枚ではない。


 五枚、十枚、さらに束で。


 荷運び少年。


 洗濯場の臨時女。


 夜番の水汲み。


 名前欄、空白。


 ミラは指先で、その黒荷印の並びをなぞった。


 順番が、伯爵家倉庫で見た黒塗り名簿と同じだった。


 王都商会は、余り物だけを売っていたのではない。


 帰れなかった人たちの一日まで、空白のまま束ねていた。

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