荷運び少年の空白賃金札
リタが焼いた朝一番の丸パンは、まだ湯気を立てていた。
孤児院行きの籠、診療所行きの粥鍋、通り売り用の小さな布包み。それぞれに受領札が結ばれ、パン屋の裏口には荷車が一台止まっている。
荷車の横で、少年が腹を押さえて立っていた。
年は十二、三ほど。肩にかけた縄は細い腕に食い込み、靴の片方は爪先が割れている。けれど、荷台の布はきちんと二重にかけられ、籠の角には雨避けの油紙まで挟まれていた。
「ルカ、まだ帰っていなかったのかい」
パン屋の女将が声をかけると、少年は慌てて背筋を伸ばした。
「帰りたいです。でも、賃金札が……」
少年――ルカは、折れ曲がった小さな札を差し出した。
荷運び少年。
臨時扱い。
賃金欄、空白。
「荷は届いたんだろう?」
昨日から居座っている臨時帳簿係が、帳簿を閉じもせずに言った。
「孤児院も診療所も受領印を押している。配送は完了だ。名前欄がない者の賃金は、後日まとめて王都商会へ精算する」
「でも、僕の帰りの荷車席がありません。次の配送札だけ渡されて……」
「臨時とはそういうものだ。仕事があるだけありがたいと思え」
ルカは唇を噛んだ。
その様子を見て、リタが窯口から一歩出た。さっき自分の朝番を取り戻したばかりの少女は、まだ煤のついた手でパン籠を抱えている。
「その子、朝一番の粉を運んでくれました。診療所の薬鍋も濡らさないように、荷台の奥へ入れて」
「証言は不要だ。荷物の受領印があれば十分だ」
「十分ではありません」
ミラは、ルカの賃金札を受け取った。
紙は薄く、端が何度も握られて白くなっている。けれど空白の賃金欄だけは、妙にきれいだった。
「配送完了とは、荷物が着いた時ではありません」
ミラは札を作業台へ置き、荷札、孤児院の受領札、診療所の受領札、門番の通行控えを順に並べた。
「運んだ人が、名前で賃金を受け取り、帰れるところまでです」
臨時帳簿係が鼻で笑う。
「在庫係が、今度は人間の棚卸しか」
「はい」
ミラは、迷わず答えた。
「人の一日を空白にしたまま閉じる帳簿なら、棚卸しが必要です」
ルカの賃金札に指を置く。
ざらり、と紙の繊維が鳴った。
視界の端に、断片が浮かぶ。
――夜明け前、粉袋を濡らさないように荷台の中央へ寄せるルカの手。
――診療所前で、薬鍋の蓋を片手で押さえながら受領印を待つ背中。
――孤児院の門で、小さな子が「ルカ兄ちゃん」と呼ぶ声。
――帰り道の北門。荷車席の名札だけが外され、次の配送札が無言で押しつけられる。
――賃金台帳の空白欄へ、黒い荷印が押される。
ミラは息を吐き、目を開けた。
「荷物は届いています。でも、運んだ人だけが届いていないことにされています」
「意味の分からないことを言うな」
「意味は分かります。荷物の受領印で配送費を受け取り、運び手の名前を空白にすれば、人件費だけを余剰にできます」
作業台の上で、ミラは札を一枚ずつ指した。
「粉袋三つ。診療所の粥鍋。孤児院の朝食籠。すべて同じ通行時刻、同じ荷車番号です。門番控えには、荷車を押した少年の名が残っています。ルカ・ミル」
ルカが小さく肩を震わせた。
「僕の名前、そこに……」
「残っています。消し忘れではありません。消してはいけない名前です」
リタがパン籠を台へ置いた。
「私も証人になります。朝一番の粉を運んだのは、ルカです。粉が遅れていたら、孤児院の十五食は焼けませんでした」
診療所から戻ってきた薬師テオも、受領札を差し出した。
「粥鍋を濡らさなかった。熱の子に出す薬前の粥だ。彼の運び方が荒ければ、今朝の薬は遅れていた」
臨時帳簿係の顔色が変わる。
「臨時名簿に名前がない者へ、賃金は出せない」
「名前がないから賃金がないのではありません」
ミラは、空白だった賃金欄の横に仮札を置いた。
荷運び、ルカ・ミル。
粉袋三、粥鍋一、朝食籠二。
半日賃金、銅貨六枚。
帰宅荷車席、北門二番。
次配送、本人確認後。
「賃金を消すために、名前を外したんです。この空白は未雇用の印ではありません。未払いの証拠です」
パン屋の女将が、銅貨六枚を数えて仮札の上に置いた。
「うちの責任印で仮払いする。後で正式に請求するよ。荷物だけ届いて、荷運びが帰れない朝なんて、うちのパンの受領とは言わせない」
ルカは銅貨を見つめたまま、すぐには手を伸ばせなかった。
「……もらって、いいんですか」
「働いた分です」
ミラは仮札を少年の手元へ押した。
「それと、帰りの席も。今日は、荷物だけでなく、荷運びも帰します」
ルカの目が赤くなった。
それでも少年は泣かなかった。銅貨を握りしめ、少しだけ顔を上げる。
「僕、次も運べます。でも、名前を書いてから受けたいです」
「それが正しい順番です」
ミラは賃金台帳に青い仮保留印を押した。
空白は埋めない。
消さない。
空白の横に、ルカ・ミルの仮札番号と証人名を写す。
すると、台帳の下段に並んだ同じ黒荷印が見えた。
一枚ではない。
五枚、十枚、さらに束で。
荷運び少年。
洗濯場の臨時女。
夜番の水汲み。
名前欄、空白。
ミラは指先で、その黒荷印の並びをなぞった。
順番が、伯爵家倉庫で見た黒塗り名簿と同じだった。
王都商会は、余り物だけを売っていたのではない。
帰れなかった人たちの一日まで、空白のまま束ねていた。




