名札のない麦袋は、焼き場番の名前です
水車が動き出した翌朝、パン屋の裏口には粉袋が三つ並んでいた。
小屋番の少年が徹夜で臼を見張り、パン屋の女将が夜明け前から窯を温めた。診療所の粥鍋も、孤児院の朝食籠も、今日は空で帰らずに済む。
けれど、焼き場の戸口で一人の少女が立ち尽くしていた。
「リタ、どうして窯の前に入らないんだい」
女将が声をかけると、煤で黒くなった頬の少女は、握りしめた番札を胸元で隠した。
「……今日の朝番、わたしの名前がありません」
壁の番表には、朝一番の焼き場番の欄があった。
そこには、名前ではなく、短くこう書かれていた。
名札なし麦袋分。
「粉はある。窯も熱い。だから焼けるはずだろう?」
伯爵家から来た臨時の帳簿係が、戸口で鼻を鳴らした。
「誰が焼いても同じだ。名札のない麦袋なら、担当者も空欄でよい。責任はパン屋全体、賃金は後日まとめて処理する」
その言葉に、リタの肩が小さく揺れた。
誰が焼いても同じ。
ミラは、その言い方が嫌いだった。
青い保存瓶も、古毛布七枚も、水車の歯車も、帳簿の上では同じように扱われていた。余り物。処分品。売却可能。
けれど、瓶には夜の薬棚があった。
毛布には七つの寝床があった。
歯車には、明日の粉と粥と朝食があった。
では、名札のない麦袋には何があるのか。
「その麦袋に触れてもいいですか」
ミラが尋ねると、臨時帳簿係は笑った。
「無能在庫係が、今度は麦の気持ちでも読むのか」
「麦の気持ちは読めません」
ミラは袋の口紐に指を置いた。
「でも、次に誰の手を必要としているかは、少しだけ見えます」
ざらり、と麻袋の繊維が指先に引っかかる。
視界の端が白くほどけた。
――夜明け前の窯口。
――リタの細い腕が、最初の二十個を左奥へ、次の十個を右手前へ入れる。
――焦げやすい端の火を、濡らした木べらで一度だけ押さえる。
――孤児院行きの小さな丸パンに、目印の浅い切り込みを入れる。
――賃金台帳の朝番欄に、リタ・ハル、と記されるはずの空白。
ミラはゆっくり目を開けた。
「この麦袋の次の持ち主は、パン屋ではありません」
「は?」
「リタさんの朝番です」
臨時帳簿係の笑いが止まった。
ミラは作業台の上に、麦袋、粉挽き小屋の受領札、パン屋の番表、賃金台帳を並べた。
「この麦袋は、昨日の水車修繕で戻った粉の一部です。粉挽き記録では、朝一番の三十食分。パン屋の番表では、朝番リタさん。賃金台帳では、同じ時間帯の欄だけ空白になっています」
「だから何だ。名札がないなら、正式担当は未定だ」
「違います」
ミラは麦袋の縫い目を指した。黒い荷印が、薄くこすれている。
「名札がないのは、担当者がいないからではありません。担当者の名前を外すと、賃金を払わずに朝番だけ使えるからです」
戸口の空気が冷えた。
リタが、番札を握る指に力を込める。
「わたし、昨日も焼きました。名前がなくても、焼けって言われたから。でも、賃金欄は空白で……焦げた分だけ、あとで責任を取れって」
「名札のない麦袋は、余った麦ではありません」
ミラは帳簿の余白に、仮札を一枚作った。
朝一番麦袋分。
焼き場番、リタ・ハル。
孤児院十五食、診療所三鍋、通り売り十二個。
「これは、名前を呼ばれるための麦袋です。今日の焼成分は、リタさんの朝番として仮登録します。空白だった欄は消しません。空白のまま、黒荷印つきの証拠として残します」
「勝手なことをするな!」
「勝手ではありません」
パン屋の女将が、低い声で言った。
「この窯の火加減を、朝一番で読めるのはリタだ。あの子の名前なしに三十食を焼けと言うなら、うちの責任印は押さないよ」
小屋番の少年も、粉挽き札を差し出した。
「粉はリタ姉ちゃんの番に合わせて挽いた。俺も証人になる」
ミラはリタに仮札を渡した。
「呼んでください。自分の名前で」
リタは一度だけ息を吸い、窯口へ向き直った。
「朝一番、焼き場番リタ・ハル。孤児院十五食、診療所三鍋、通り売り十二個。焼成に入ります」
その声で、窯の前にいた人たちが動き出した。
粉が捏ねられ、丸められ、赤い窯口へ入っていく。最初のパンが膨らみ始めたとき、リタの目元が少しだけ緩んだ。
パンが焼ける。
それだけではない。
今日の朝番が、誰の仕事だったかが戻ってくる。
焼き上がった最初の一籠を、リタは自分の名前で受け取った。
ミラは賃金台帳の空白欄に、仮札番号を写した。黒荷印は消さず、丸で囲む。
その下の行に、もう一つ、同じ黒荷印があった。
麦袋ではない。
荷運び少年、臨時扱い。
名前欄、空白。
ミラの指先が止まる。
王都商会が余剰にしているのは、物だけではない。
働いた人の名前まで、売却できる空欄に変えている。




