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追放された貧乏伯爵家の在庫係、余り物に触れると『次の持ち主』が見えるので倉庫から領地を救います  作者: 花守りつ


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3/12

水車の欠け歯車は、明日のパンです

雨上がりの朝、ミラは粉挽き小屋の前で止まった。


 水車は回っている。


 けれど、粉袋は一つも膨らんでいなかった。


「今日は焼けないよ」


 小屋番の少年が、濡れた前髪を手の甲で拭いた。


「水は来てる。桶も回ってる。でも、噛み合いが一つ飛ぶんだ。臼が空回りする」


 彼の後ろで、パン屋の女将が両腕を抱えていた。さらにその後ろには、薬師テオの診療所から来た小さな使いの子が、空の粥鍋を抱いている。


 小麦が粉にならない。


 パン屋の三十個の丸パンが焼けない。


 診療所の病人粥が薄くなる。


 孤児院の朝食が、水だけになる。


 歯車一つの故障は、歯車一つでは終わらない。


「修繕部品は?」


 ミラが尋ねると、パン屋の女将が苦い顔で紙片を差し出した。


「伯爵家の倉庫にはあるはずなんだよ。去年の水害のあと、修繕費で買った。けど今朝、使いの者が戻ってきた。『余剰部品として王都商会へ売却済み』だって」


 紙片には、きれいな文字でそう書かれていた。


 余剰歯車 一個。


 処分済み。


 ミラはその言葉を、指先でなぞった。


 余剰。


 昨日までの伯爵家倉庫なら、彼女自身もそう読んだかもしれない。棚に置かれ、誰にも使われていない。帳簿上は動かない。ならば売れる。


 けれど、青い保存瓶は夜の薬棚だった。


 古毛布七枚は、七つの寝床だった。


 では、水車の歯車は何か。


「その歯車、番号は分かりますか」


「水車修繕用、第三径、十四枚歯。荷札番号は……これだ」


 小屋番が濡れた木札を見せた。


 ミラは息を整えた。


 昨日、古毛布の荷台で見た商会印と同じ曲線が、木札の端に薄く残っている。


 彼女は自分の鞄を開き、追放時に持たされた「余り物」の袋から、鉄くずに見える小さな歯車を取り出した。


 伯爵家の使用人頭は笑っていた。


『そんな曲がった古歯車まで持っていくのか。無能な在庫係にはお似合いだ』


 曲がっているのではない。


 片側だけ、摩耗の角度が違う。


 水車の軸に合わせて、わざと削ってある。


 ミラが歯車に触れた瞬間、視界が薄く白んだ。


 ――小屋番の両手。


 ――臼の下に落ちる最初の粉。


 ――女将が、丸パンを三十個ではなく二十七個並べる。


 ――残り三個分の粉を、診療所の粥鍋へ入れる。


 ――孤児院の窓際の席で、毛布をかけた子がパンを半分だけ割って笑う。


 次の持ち主は、パン屋だけではなかった。


 粉挽き小屋でも、診療所でも、孤児院でもある。


 これは余剰部品ではない。


 明日のパンの、未配送予約分だ。


「この歯車は売却品ではありません」


 ミラは水車小屋の机に、木札、売却通知、そして古歯車を並べた。


「修繕費の目的語は“歯車”ではなく、“朝の粉”です。朝の粉は、パン屋と診療所と孤児院に割り当てがあります。部品だけを余剰として切り離すと、三つの生活手順が止まります」


「目的語……?」


 小屋番が首を傾げる。


「何を守るための費用か、です」


 ミラは紙片の余白に短く書いた。


 水車修繕費。


 その下に、三本の線を引く。


 一、パン屋朝焼き二十七個。


 二、診療所病人粥三鍋。


 三、孤児院朝食十五人分。


「伯爵家の帳簿では“歯車一個”ですが、村の帳簿では三つの朝です。三つの朝がまだ来ていないなら、未使用ではなく予約中です」


 パン屋の女将が、唇を噛んだ。


「じゃあ、売った方が間違ってるって言えるのかい」


「言えます。ただし怒鳴る前に、回しましょう。怒りは粉になりません」


 ミラがそう言うと、小屋番が初めて少し笑った。


 歯車は古かった。軸穴の縁は錆び、噛み合わせも完全ではない。


 けれど、ミラは棚卸しで部品の保管癖を知っている。伯爵家の水車部品は、出荷前に油布を巻かずに積まれることが多い。錆は表面だけだ。摩耗角は、むしろこの水車に合わせた証拠だった。


「半日だけなら持ちます。今日は粉を全部挽かず、先に診療所分と孤児院分。残りをパン屋さんの朝売りに回してください」


「うちは?」


「丸パン二十七個。三個減ります。でも、診療所の粥が戻れば、昼に薬を飲める人が増えます。薬が効けば、明日の買い手も減りません」


 女将はしばらくミラを見た。


 商売の損得ではなく、朝がつながる順番を見ている目だった。


「……あんた、追い出されたって聞いたよ」


「はい」


「じゃあ誰の許可で、うちの粉の数まで決めるんだい」


 ミラは一瞬だけ言葉に詰まった。


 伯爵家の在庫係では、もうない。


 でも、歯車は彼女に明日のパンを見せた。


 彼女は鞄から、昨日テオが書いてくれた小さな紙札を取り出した。


 臨時返還係 ミラ。


 夜薬保存瓶、一件返還済み。


「正式な許可ではありません。けれど、未配送予約分を見つけた者として、今日の仮順だけは書けます。嫌なら破ってください」


 女将は紙札を受け取り、破らなかった。


「二十七個でいい。だけど一番小さいのを三つ、粥用に持っていきな。病人粥だけじゃ腹が泣く」


 水車が、低い音を立てて噛み合った。


 一回。


 二回。


 三回。


 臼の下に、白い粉が落ちる。


 小屋番が息を呑み、使いの子が粥鍋を抱き直した。


 ミラは粉袋の口を押さえながら、帳簿の売却通知をもう一度見た。


 余剰歯車 一個。


 その右下に、小さな別番号が打たれている。


 古毛布の受領印にもあった、黒塗り前の商会番号。


 しかも、数字が一つだけ違う。


「同じ帳簿ではありません」


 ミラは呟いた。


「売却帳簿と修繕帳簿が、別々に同じ歯車を持っていることになっています」


「どういうことだい」


 女将が問う。


 ミラは、粉で白くなった指先を見た。


「誰かが、“まだ届いていない朝”を、もう売れる余り物として数えています」


 そのとき、水車小屋の外で馬車が止まった。


 伯爵家の紋ではない。


 王都商会の、黒い荷印。


 降りてきた男は、ミラの机に並んだ歯車と木札を見て、笑わなかった。


「その部品は、当商会が正当に買い受けた在庫です」


 ミラは粉袋の口を結んだ。


 今日の粉は、まだ半分しか挽けていない。


 だが、最初の三鍋分はもう白く積もっている。


「では、正当な買受書を見せてください」


 ミラは売却通知の右下を指で押さえた。


「この番号、古毛布七枚の未受領番号と、一桁だけ違います。間違いなら、今ここで直せます。故意なら――明日のパンを売った証拠になります」


 男の手袋が、ぴくりと動いた。


 水車は回り続けた。


 粉は、止まらなかった。

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