古毛布七枚は、冬支度の未受領です
処分市は、夜明け前から始まる。
伯爵家の裏庭には、まだ雨の匂いが残っていた。荷馬車の車輪が泥を噛み、商会の男たちが箱を開けては、値札をつけていく。
「古毛布七枚。虫食いなし、染み少々。まとめて銅貨三十枚」
商会番頭の声が、朝の冷気に乾いて響いた。
わたしは裏門の影で、濡れた棚卸し札を握りしめる。隣では薬師のテオさんが、診療鞄を肩にかけたまま息を潜めていた。
「ミラ、本当に戻るのか。きみは昨日、追い出されたばかりだ」
「戻るのではありません。未配送分を回収しに来ただけです」
処分箱の上に、古毛布が七枚、紐で縛られていた。
灰色の布。端に伯爵家の織り印。冬支度用の油紙に包まれていたはずのものが、いまは裸のまま冷たい木箱へ押し込まれている。
わたしが指先で一枚目に触れた瞬間、水面が開いた。
――隙間風の入る部屋。
――二人で一枚の布を引っ張り合う、小さな手。
――「今日は窓側の子を先に」と、かすれた声で言う院長。
次に二枚目。
――咳をする男の子の肩。
――夜番の少女が、自分の布を年少組へ譲って、膝を抱える姿。
七枚は、七枚の値段ではなかった。
七つの夜を、朝までつなぐ数だった。
「やはり孤児院です。冬支度台帳の未受領分」
「でも帳簿上は、余剰品なんだろう?」
「いいえ」
わたしは胸元から、昨日テオさんの診療所で写した受領欄の控えを出した。
孤児院冬支度、毛布七枚。配送予定日は三日前。受領印は空白。
その横に、伯爵家の倉庫台帳では赤い処分印。
同じ品物が、受け取る側では「届いていない」、売る側では「余っている」ことになっている。
「空白を、余り物の証拠にしてはいけません」
わたしは処分箱へ歩き出した。
「おい、何をしている」
伯父――家令のラドムが、帳面を抱えたままこちらを振り向いた。目が合った瞬間、彼の眉が吊り上がる。
「ミラ。おまえに倉庫へ触れる権利はもうない」
「倉庫へは触りません。未配送予約分へ触れます」
「言葉遊びをするな」
ラドムは商会番頭へ顎をしゃくった。
番頭が古毛布の紐を引き、商会札を重ねて結ぶ。伯爵家の織り印が、黄色い買付札の下へ隠れた。
「貧乏伯爵家に、善意で寝かせておく布などない。使っていないものを金に換える。それが管理だ」
「使っていないのではありません。使う場所へ届いていないのです」
わたしは一歩前に出て、毛布の端をめくった。
内側に、薄い青糸で縫われた小さな印がある。孤児院の冬支度品だけにつける、雪割草の印。
「この織り印は、伯爵家の一般備品ではありません。孤児院向けの防寒支給品です。こちらの配送札、三番目の穴が切れているでしょう。これは『年少寝室へ優先』の印。処分市へ出す品なら、穴は切りません」
番頭の手が止まった。
「……そんな細かい印、買付側が知るはずない」
「知らないなら、買う前に確認してください。知っていて買うなら、未配送品の横流しです」
ラドムの頬がわずかに歪む。
「受領印がない。孤児院が受け取っていないなら、伯爵家の在庫だ」
「受領印がないからこそ、まだ届ける責任が残っています」
わたしは控えを番頭の前へ置いた。
「処分品として買うなら、まずここへ署名してください。『孤児院冬支度未受領分と知ったうえで買い受ける』と」
番頭が喉を鳴らした。
商人は安い品が好きだ。けれど、後で責任ごと高くなる品は嫌う。
「……家令殿。これは、話が違う」
「余計な真似を」
ラドムがわたしの腕を掴もうとした瞬間、テオさんが間に入った。
「診療所として証言します。昨夜、青い保存瓶も同じ処分箱から出ました。受領印の空白が連続しているなら、冬支度品の流れを止めている者がいる」
その言葉に、裏庭へ集まっていた使用人たちがざわめいた。
誰も、孤児院の毛布を売った人間にはなりたくない。
番頭は黄色い買付札を外し、舌打ちと一緒に箱を押し返した。
「商会は、この七枚を買わない。受領先が決まっているなら、うちの荷馬車に載せる筋合いはない」
勝った、とは思わなかった。
まだ届いていないだけのものを、やっと出発線へ戻しただけだ。
わたしとテオさんは、古毛布を二枚ずつ抱え、残りを古い台車へ積んだ。裏門を出るとき、ラドムの声が背中に刺さる。
「その毛布で借金が消えると思うなよ」
「思いません」
わたしは振り返らなかった。
「でも、今夜、子どもが一人で眠れます」
孤児院は、丘の下にある。
朝の鐘が鳴るころ、わたしたちは扉を叩いた。院長のマルタさんは、わたしの腕の毛布を見るなり、言葉を失った。
「それは……届かないものだと思っていました」
「届きました。いえ、遅れました。受領印をお願いします」
マルタさんの手は震えていた。
でも判子を押す音は、はっきりしていた。
七枚の毛布は、すぐに部屋へ運ばれた。
一枚は窓側の寝台へ。一枚は咳をしていた男の子へ。一枚は夜番の少女の肩へ。残りは年少組の寝床を二つずつ包むように重ねられた。
「……今日は、布を取り合わなくていいの?」
いちばん小さな子が、毛布の端に頬をつけて聞いた。
「いいのよ」
マルタさんが答える前に、わたしは膝をついた。
「これは、あなたたちの冬支度です。余り物ではありません」
子どもは、安心したように目を閉じた。
その一息だけで、銅貨三十枚より重かった。
受領台帳に、七つの印が並ぶ。
空白だった欄が、生活へ戻っていく。
けれど、最後の一行でわたしの指が止まった。
水車用歯車一つ。
粉挽き小屋、朝焼きパン用。
受領印、空白。
処分予定、明日正午。
荷札に触れると、水面の向こうで、水車が止まっていた。
粉袋を抱えたパン屋の女将が、冷えた窯の前で唇を噛んでいる。
そして黒塗りの受け取り先の下に、今度は商会印ではなく、伯父ラドムの個人印が薄く浮いていた。
「次は、歯車です」
わたしは台帳を閉じた。
「明日のパンを、余り物にさせません」




