ep.1 余り物ではなく、まだ届いていないだけです
「ミラ、おまえは今日で倉庫係を外れる」
伯爵家の古倉庫は、雨の日になると屋根裏から湿った木の匂いが落ちてくる。
その匂いの中で、わたしは棚卸し札を握ったまま、伯父である家令の顔を見上げた。
「外れる、とは」
「言葉どおりだ。貧乏伯爵家に、物を数えて溜めこむだけの人間を置く余裕はない。余剰品を売れば、今月の利息だけは払える」
余剰品。
伯父は、倉庫のものをいつもそう呼ぶ。
棚の奥の保存瓶も、古い毛布も、錆びた車輪金具も、箱に入ったままの灯油皿も。
使われていないものは、すべて余っているのだと。
「この青い保存瓶は廃棄に入れないでください。封蝋が生きています。薬師台帳の二十三番と合わせれば、夜薬の保管に使えます」
「またそれか。使う相手のない瓶に、何の価値がある」
伯父は棚卸し札を奪い、赤い処分印を押した。
札の上で、青い保存瓶の番号が潰れる。
「餞別だ。そんなに物が好きなら、処分箱から三つだけ持って出ていけ。明日から伯爵家の倉庫に触れることは許さん」
悔しさより先に、胸の奥が冷えた。
わたしが追い出されることではない。
この倉庫の品が、誰にも行き先を聞かれないまま売られることが、怖かった。
わたしは処分箱の前に膝をついた。
割れかけた鍋。片方だけの子ども靴。青い保存瓶。
最後に瓶へ触れた瞬間、指先に冷たい水面のようなものが開いた。
――暗い診療所。
――熱で息を詰まらせる、小さな女の子。
――薬師が空の棚を叩き、「青い瓶さえあれば夜明けまで保つ」と呟く声。
見えたのは、価値ではなかった。
値段でも、魔力でもない。
その瓶が次に置かれるべき棚と、それを待っている人の手だった。
「伯父様。この瓶は余っていません」
「まだ言うか」
「まだ届いていないだけです」
伯父は笑った。
けれど、わたしの手はもう止まらなかった。
処分箱から青い保存瓶、古い防水布、荷札の束を取り、倉庫の裏口から雨へ出る。
追放された在庫係に馬車はない。だから、配送順を組む。
保存瓶は布で包む。封蝋の端は濡らさない。坂道を避け、粉挽き小屋の軒を通れば、診療所まで二十分短くなる。
領地の夜は、王都の人が思うより暗い。
雨の日はなおさらだ。
それでも、古い荷札には道が残っている。昔の配送係が、濡れない順番を小さな印で書いてくれていた。
村診療所の扉を叩くと、中から男の声が跳ねた。
「閉めている! 薬はもう――」
「青い保存瓶を届けに来ました。封蝋は生きています。夜薬を冷やせますか」
扉が開いた。
薬師テオは、わたしの手元を見て息を呑んだ。
「それをどこで」
「伯爵家の処分箱です。薬師台帳二十三番、受領印が空白でした。たぶん、ここに届く前に余剰品へ戻されています」
テオの顔色が変わる。
奥の寝台で、女の子が苦しそうに肩を上下させていた。母親が濡れた布を替えているが、湯気はもう弱い。
「エリンの夜薬は、銅皿では保たない。青い瓶なら、朝まで温度が落ちない」
テオは瓶を受け取り、棚の奥から薬液を移した。
わたしは防水布を小さく切り、窓枠の隙間を塞ぐ。風が止まると、寝台の上の呼吸が少しだけ整った。
薬が女の子の口へ落ちる。
一滴、二滴。
しばらくして、握りしめられていた小さな指が、母親の袖からほどけた。
「……熱が、下がり始めた」
母親が泣き出した。
テオは空になった古い銅皿を見つめ、それからわたしを見た。
「君は、伯爵家の」
「もう違います。今日、追い出されました」
「では、ミラ。在庫係のミラ」
その呼ばれ方に、胸が熱くなった。
追放されたはずなのに、役目だけが雨の中で戻ってきた気がした。
「これは余り物ではなかったんだな」
「はい。使われていなかったのではなく、受け取りに来られない場所へ置かれていただけです」
テオは診療所の帳簿を開いた。
青い保存瓶の欄には、たしかに受領印がない。
けれど不自然なのは、それだけではなかった。
冬毛布七枚。
水車用の歯車一つ。
孤児院の粗布三反。
どれも、伯爵家の倉庫では余剰品として赤印が押されていたものだ。
そして受け取り先の名前の横に、黒く塗り潰された空白がある。
わたしが荷札に触れると、また水面が開いた。
寒い部屋。震える子どもの肩。回らない水車。焼けない朝のパン。
品物たちは、まだ倉庫の暗がりで順番を待っている。
余っているのではない。
まだ届いていないだけだ。
わたしは濡れた棚卸し札を握り直した。
「テオさん。明日の朝までに、伯爵家の処分市は開きますか」
「開く。家令が商会を呼んでいる」
「では、その前に取り戻します。最初は、古毛布七枚です」
診療所のランプが、雨に揺れた。
その灯りの下で、黒塗りの持ち主名が一つだけ、かすかに浮かび上がる。
――孤児院、冬支度未受領。
わたしの仕事は、まだ終わっていなかった。




