第9話 転落
第9話 転落
午前六時。
六本木の空は、まだ薄暗かった。
雨が降っている。
重たい灰色の雲。
濡れた高層ビル群。
《Eternal Link》本社ビルの前には、異様な数の報道陣が集まっていた。
テレビカメラ。
マイク。
スマートフォン。
怒号のようなフラッシュ。
そして。
黒い車列。
「東京地検特捜部です」
低い声が響く。
次の瞬間、ビルへ一斉に捜査員たちが雪崩れ込んだ。
騒然となるエントランス。
社員たちの悲鳴。
「えっ、なに……!?」
「強制捜査って本当!?」
「パソコン触るな!」
冷たい怒声が飛ぶ。
瑛太は社長室で、その光景を見ていた。
顔色は真っ青だった。
机の上には、開きっぱなしのノートPC。
ニュース速報が流れている。
《Eternal Link 特別背任容疑》
《架空経費計上》
《粉飾決算疑惑》
《脱税の可能性》
終わった。
その言葉だけが頭を回る。
「社長!!」
経理部長が駆け込んでくる。
ネクタイは曲がり、顔面蒼白だった。
「まずいです!! サーバー押さえられます!!」
「……黙れ」
「取引先が全部契約停止を——」
「黙れって言ってんだろ!!」
怒鳴った瞬間、自分の声が空しく響いた。
以前なら。
こういう時、麗華がいた。
先回りして火消しをし、法務を動かし、記者対応まで整えていた。
だが今はいない。
誰も守ってくれない。
社長室のドアが乱暴に開く。
「瑛太さん!!」
白鳥萌々香だった。
顔は涙でぐしゃぐしゃ。
高級ブランドのコートを羽織っているが、髪は乱れ、化粧も崩れていた。
「どうするんですかぁ!? 私SNSで死ぬほど叩かれてるんですけど!!」
スマホ画面を突きつけてくる。
《#経費愛人》
《#会社のお金でブランド漁り》
《#白鳥萌々香》
炎上していた。
過去に投稿したバッグ。
海外旅行。
高級ディナー。
全部掘り返されている。
コメント欄は地獄だった。
『社員の金で遊んでたの?』
『秘書じゃなく愛人じゃん』
『下品すぎる』
萌々香は半狂乱だった。
「なんで私ばっか責められるの!?」
瑛太は何も言わない。
いや、言えなかった。
全部事実だからだ。
その時だった。
捜査員が社長室へ入ってくる。
「氷室瑛太さんですね」
冷たい声。
「令状です。室内を確認します」
「……っ」
瑛太の喉が引き攣る。
捜査員たちは容赦がなかった。
金庫。
書類。
PC。
次々に押収されていく。
萌々香が悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっと待って!! それ私のバッグ!!」
「経費購入品の可能性がありますので」
「返してよぉ!!」
捜査員は無表情だった。
棚に並んでいた高級バッグが、無造作に段ボールへ詰め込まれていく。
バーキン。
限定ジュエリー。
時計。
全部。
萌々香は床へ崩れ落ちた。
「やだぁ……やだぁ……!」
その光景を見ながら、瑛太はぼんやり思う。
以前の麗華は、一つのバッグを買うにも慎重だった。
本当に必要か。
長く使えるか。
職人の価値があるか。
そうやって選んでいた。
“持つ”とは、責任だった。
だが萌々香は違う。
見せびらかすためだけにブランドを欲しがった。
そして自分も、それを“成功”だと思っていた。
浅かった。
全部。
「氷室さん」
捜査員が低く告げる。
「任意同行をお願いします」
ついに来た。
瑛太の膝が震える。
窓の外では、報道陣が待ち構えている。
全国へ晒される。
転落した男として。
その時だった。
社長室のテレビから、ニュースキャスターの声が流れた。
《本日、Maison de L'Aubeの世界的新プロジェクト発表会がパリで開催され——》
画面へ映る。
神代麗華。
サファイアブルーのスーツ姿だった。
凛としている。
堂々としている。
世界のCEOたちと並び、笑っていた。
その隣にはアレクがいる。
二人は自然だった。
対等で。
美しくて。
遠い。
瑛太は呆然と見つめる。
別世界だった。
かつて自分の隣にいた女。
自分だけを見ていた女。
そのはずだった。
なのに。
本当は違った。
価値があったのは、自分ではない。
麗華だった。
人脈も。
信用も。
成功も。
全部。
麗華が隣にいたから、自分は“社長”でいられただけだった。
その現実が、今さら骨まで突き刺さる。
萌々香が泣き叫ぶ。
「瑛太さんなんとかしてよぉ!!」
だが瑛太は、もう彼女を見ていなかった。
報道陣のフラッシュが窓の外で弾ける。
雨音。
怒号。
サイレン。
全てが混ざる。
そして瑛太は初めて理解する。
自分は、一度も誰かに愛されてなどいなかった。
麗華という“本物”の隣にいたから、価値があるように見えていただけだったのだと。
その代償は、あまりにも大きかった。




