第8話 格が違うのですわ
第8話 格が違うのですわ
東京コレクション閉幕後。
《Maison de L'Aube》主催のレセプションパーティーは、都内最高級ホテルのペントハウスで開かれていた。
巨大な窓の向こうには、宝石のような東京の夜景。
シャンデリアの光がグラスに反射し、淡いジャズが空気を滑っていく。
選ばれた者だけが入れる空間だった。
世界的俳優。
海外メディア。
財界人。
トップモデル。
誰もが洗練されている。
大声で笑う者はいない。
ブランドを見せびらかす者もいない。
本物の世界とは、静かなのだ。
その中心で、神代麗華は白いドレス姿のまま微笑んでいた。
東京コレクションのフィナーレを飾ったドレス。
純白のシルクは光を受けて柔らかく輝き、背中を流れるラインは夜の月光のように美しい。
「Reika!」
海外メディアの記者が駆け寄る。
「今の女性たちへ、一言いただけますか?」
麗華は静かにグラスを持ち上げた。
淡いシャンパンの泡が揺れる。
「そうですわね」
落ち着いた声。
周囲が自然と耳を傾ける。
「誰かに選ばれるためではなく、自分で自分を選べる女性が増えれば素敵だと思います」
その瞬間、拍手が起きた。
記者たちが熱心にメモを取る。
フラッシュが弾ける。
麗華は少し困ったように笑った。
その姿がまた美しい。
アレクが隣で目を細める。
「君は本当に、人を惹きつける」
「わたくし、目立つのは苦手ですのに」
「嘘だな」
アレクが低く笑う。
「君は生まれつき、舞台に立つ側の人間だ」
その時だった。
後方で、ざわめきが起きた。
空気が乱れる。
静かな会場に似合わない荒い足音。
麗華は振り返る。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
氷室瑛太だった。
ネクタイは歪み、髪も乱れている。
以前の“成功者”の面影は薄い。
顔色も悪かった。
周囲の客たちが露骨に距離を取る。
瑛太は構わず、一直線に麗華へ近づいてきた。
「……麗華」
掠れた声。
酒の匂いがした。
アレクが一歩前へ出ようとする。
だが麗華は軽く手で制した。
「大丈夫ですわ」
その声は静かだった。
瑛太は麗華を見つめた。
白いドレス。
凛とした立ち姿。
周囲の視線を集めながら、少しも媚びない姿。
綺麗だった。
いや。
もう“綺麗”なんて言葉では足りない。
手が届かない。
そんな女になっていた。
「……麗華、頼む」
瑛太の声が震える。
「戻ってきてくれ」
会場が静まり返った。
誰もがこちらを見ている。
だが瑛太にはもうそんな余裕すらない。
「俺、間違ってたんだ」
必死だった。
「お前が必要なんだよ……!」
麗華は黙って見下ろしていた。
その目に、もう愛情はない。
ただ静かな観察だけ。
瑛太はさらに一歩近づいた。
「会社も……全部、お前がいないと駄目で……」
声が掠れる。
「俺、本当に後悔してる」
その瞬間だった。
後ろからヒステリックな声が響いた。
「なにそれぇ!?」
白鳥萌々香だった。
顔を真っ赤にして立っている。
胸元の開いた真紅のドレス。
以前よりさらに派手になっていた。
だが、この空間では悪趣味でしかない。
萌々香は震える声で叫ぶ。
「私の前でそんなこと言うの!?」
瑛太が振り返る。
「萌々香、お前今は——」
「黙って!!」
会場中の視線が刺さる。
萌々香は完全に取り乱していた。
「この女のせいじゃん!! 全部!!」
麗華は何も言わない。
その沈黙が、逆に萌々香を追い詰める。
「なんでそんな顔できるのよ……!」
萌々香の目に涙が浮かぶ。
「なんでアンタばっかり!!」
次の瞬間だった。
萌々香がテーブルのワイングラスを掴む。
赤ワイン。
深いルビー色。
周囲が息を呑む。
「やめろ!」
瑛太が叫ぶ。
だが遅い。
萌々香はそのまま麗華へワインを投げつけた。
真紅の液体が空中を舞う。
——しかし。
麗華は動いた。
たった半歩。
ヒールを滑らせるように身体を捻る。
白いドレスが、月光みたいに翻る。
次の瞬間。
ワインは一滴も麗華へかからず、そのまま萌々香自身へ降りかかった。
「きゃっ!?」
バランスを崩した萌々香が、高いヒールのまま転倒する。
床へ派手に倒れ込む。
赤ワインがドレスを染め、バッグが転がり、周囲から小さな悲鳴が上がった。
静寂。
誰も動かない。
萌々香だけが、惨めに床へ這いつくばっていた。
その姿を、麗華は静かに見下ろす。
純白のドレスは、一滴も汚れていない。
まるで最初から、こうなるとわかっていたみたいに。
萌々香が涙目で叫ぶ。
「なんでよぉ……!」
麗華はゆっくり近づいた。
ヒールの音が静かに響く。
カツ、カツ、と。
そして、穏やかに微笑む。
その笑みは美しかった。
だからこそ残酷だった。
「白鳥さん」
低く澄んだ声。
「安物ほど、派手に壊れるものですわ」
周囲が息を呑む。
萌々香の顔が絶望に歪んだ。
瑛太は立ち尽くしていた。
何も言えない。
何もできない。
目の前にいるのは、自分が知っていた“妻”ではない。
もっと高い場所へ行ってしまった女だった。
その時、アレクが静かに麗華の腰へ手を添える。
自然な動作だった。
守るように。
隣に立つのが当然だと言うように。
「行こう、Reika」
麗華は小さく頷く。
そして、一度も振り返らなかった。
白いドレスが夜景の中へ消えていく。
その背中を見ながら、瑛太は初めて理解した。
自分はもう。
二度と、この女に届かないのだと。




