第10話 夜明けのドレス
第10話 夜明けのドレス
パリの朝は、美しかった。
夜と朝の境界がゆっくり溶けていく。
薄青い空。
セーヌ川を渡る柔らかな風。
石畳は昨夜の雨をわずかに残し、街灯の灯りが静かに消えていく。
《Maison de L'Aube》本店最上階。
プライベートサロンの窓辺で、神代麗華は静かに外を見ていた。
白いティーカップから、紅茶の湯気が細く立ちのぼる。
ベルガモットの香り。
遠くで教会の鐘が鳴った。
「眠れなかったのか?」
低い声が背後から響く。
振り返ると、アレクがいた。
黒のシャツ姿。
ネクタイもなく、普段より少しだけラフな装いなのに、それでも隙がない。
麗華は微笑む。
「少しだけ」
「珍しいな」
「パリが綺麗すぎるのです」
アレクが近づいてくる。
窓から差し込む朝の光が、その横顔を淡く照らした。
「今日で全部終わる」
「ええ」
瑛太の会社は完全に崩壊した。
特別背任。
粉飾。
脱税。
連日ニュースはその話題で埋まり、かつて彼の周囲に群がっていた人間たちは、蜘蛛の子を散らすように消えた。
誰も助けなかった。
それが答えだった。
麗華は紅茶へ視線を落とす。
不思議と、もう何も感じなかった。
怒りも。
悲しみも。
憎しみすら。
あるのは、静かな解放感だけ。
「麗華」
アレクが呼ぶ。
その声に顔を上げると、彼は小さな箱を持っていた。
深いネイビーのケース。
《Maison de L'Aube》の紋章が刻まれている。
「君へ」
麗華が目を瞬く。
「……わたくしに?」
「開けてみろ」
静かに蓋を開ける。
その瞬間だった。
麗華は息を呑んだ。
サファイアブルー。
夜明け直前の空みたいな色だった。
深い青。
けれど光を受けるたび、淡く紫を滲ませる。
滑らかなシルク。
繊細な刺繍。
無数の小さなビジューが、星屑みたいに輝いている。
ドレスだった。
世界に一着しかない。
ただそれだけでわかる。
「……綺麗」
思わず零れた声は、少女みたいだった。
アレクは静かに笑う。
「君のために作った」
麗華はゆっくりドレスへ触れた。
指先へ伝わる滑らかな感触。
軽い。
まるで空気を掬ったみたいに柔らかい。
「夜明けの色だ」
アレクが低く言う。
「L'Aube——夜明け」
灰色の瞳が麗華を見つめる。
「君はずっと、誰かの影に押し込められていた」
その声は穏やかだった。
けれど真っ直ぐだった。
「だがもう違う」
麗華の胸が静かに熱くなる。
アレクは一歩近づいた。
「あなたはもう、誰かの引き立て役じゃない」
その瞬間だった。
胸の奥で、何かがほどけた。
長い間。
ずっと苦しかった。
誰かのために尽くすことばかり求められて。
支えて。
耐えて。
飲み込んで。
笑って。
自分を後回しにして。
そうしているうちに、“本当の自分”がどこにいるのか分からなくなっていた。
だが今は違う。
もう、誰かに価値を決めさせない。
誰かの隣で、選ばれるのを待たない。
自分で歩く。
自分で選ぶ。
そのために、ここまで来たのだ。
麗華はゆっくり顔を上げた。
「……ありがとうございます」
声が少し震える。
アレクは何も言わない。
ただ静かに麗華を見ていた。
その視線には、支配も所有もない。
ただ対等な敬意だけがあった。
「着てみるか?」
麗華は小さく笑う。
「ええ」
◇
一時間後。
パリのテラスには、朝日が差し込んでいた。
サファイアブルーのドレスを纏った麗華が現れる。
風がシルクを揺らす。
朝焼けの光が、生地へ溶け込む。
アレクは、一瞬言葉を失った。
美しかった。
けれど、それだけじゃない。
強い。
自分で立っている女の美しさだった。
麗華はテラスの先へ歩いていく。
パリの街が眼下に広がる。
セーヌ川。
古い石造りの建物。
目覚め始める街。
新しい朝。
その風景を見ながら、麗華は静かに微笑んだ。
もう、後ろは振り返らない。
自分を雑に扱う人間へ、人生を差し出したりしない。
愛とは、我慢ではない。
尊重だ。
大切にされることだ。
そして、自分自身を大切にできることだ。
アレクが隣へ立つ。
「寒くないか?」
「平気ですわ」
「強いな」
麗華は小さく笑った。
「やっと、そうなれました」
朝日が昇る。
サファイアブルーのドレスが光を受け、夜明けの空みたいに輝いた。
その姿はもう、“誰かの妻”ではない。
誰かの引き立て役でもない。
神代麗華という、一人の女だった。
誰より高く。
誰より美しく。
誇りを持って、自分の人生を歩いていく女だった。
(完)




