エピローグ 海の色を知る
エピローグ 海の色を知る
パラオの海は、静かだった。
どこまでも透き通る青。
白い砂浜。
波が寄せるたび、陽光が水面で砕け、宝石みたいな光が揺れる。
空気は柔らかく潮の香りを含み、南国の風が肌を優しく撫でていく。
神代麗華は、裸足で桟橋を歩いていた。
白いリネンシャツに、淡いサファイアブルーのロングスカート。
肩には薄いストール。
いつものハイヒールも、ダイヤモンドも、今日はない。
耳元で小さなパールが揺れているだけだった。
「海へ入らないのか?」
背後から声がする。
振り返ると、アレクがいた。
濃紺のシャツをラフに羽織り、サングラスを片手に笑っている。
パリでは完璧な男だった彼も、ここでは少しだけ肩の力が抜けていた。
麗華は海を見つめたまま、小さく笑う。
「見ているだけで満足してしまって」
その視線の先。
パラオの海は、まるで別世界だった。
浅瀬でも魚たちが見える。
鮮やかな黄色。
青。
銀色。
珊瑚礁の間を、小さな命が自由に泳いでいる。
水があまりに透明で、空へ浮かんでいるみたいだった。
昨日、初めてダイビングをした。
海の中へ入った瞬間、麗華は言葉を失った。
静かだった。
怖いほど。
水の中では、誰の声も聞こえない。
肩書きも。
ブランドも。
過去も。
何もない。
ただ、命だけがある。
太陽の光が水中へ差し込み、青い世界を揺らしていた。
巨大なウミガメがゆっくり目の前を泳いでいく。
珊瑚が森みたいに広がり、魚たちが花吹雪みたいに舞う。
その時、麗華は思ったのだ。
——ああ、世界ってこんなに綺麗だったのだ、と。
アレクが隣へ並ぶ。
「気に入ったか?」
「ええ」
麗華は静かに頷いた。
「すごく」
潮風が髪を揺らす。
遠くで波が砕ける音。
鳥の鳴き声。
都会では聞こえなかった音ばかりだった。
東京にいた頃。
いつも戦っていた。
空気を読み。
人の機嫌を読み。
期待に応え。
失望されないように笑って。
“妻”という役割を壊さないように。
自分を後回しにして。
でも今は違う。
誰も、麗華へ何かを押しつけない。
誰かのために無理して笑う必要もない。
ただ、自分が美しいと思うものを、美しいと言える。
それだけのことが、こんなにも幸せだった。
「アレク」
「ん?」
麗華は海を見ながら言う。
「確かにドレスもアクセサリーも美しい」
アレクが静かに聞いている。
「でも、この自然の美しさにはかなわないわよね」
その言葉に、アレクは少し笑った。
「デザイナーとしては悔しいな」
「ふふ」
麗華も笑う。
「でも、本当にそう思うの」
目の前には、透明な海。
命の色。
空の青。
風の匂い。
それは人間が作れない美しさだった。
アレクは手すりへ寄りかかり、穏やかに言う。
「君、変わったな」
「そうかしら」
「昔は、“綺麗に見えること”ばかり考えていた」
麗華は少し驚く。
「見抜かれていましたのね」
「当たり前だ」
アレクは笑った。
「でも今の君は、“綺麗に生きている”」
その言葉に、麗華は静かに目を伏せる。
胸の奥がじんわり温かくなる。
昔の自分なら、信じられなかった。
離婚して。
全部失ったと思って。
惨めで。
悔しくて。
苦しくて。
なのに今。
こんなにも穏やかな気持ちで海を見ている。
生きていてよかった。
生まれてきてよかった。
そんなことを、素直に思える。
それが嬉しかった。
涙が出そうになる。
けれど悲しい涙ではない。
やっと、自分を許せた気がした。
「麗華」
アレクが静かに呼ぶ。
麗華が顔を上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「次はどこへ行きたい?」
その問いに、麗華は少し考える。
そして、柔らかく笑った。
「まだ知らない綺麗な場所へ」
「いい返事だ」
潮風が吹き抜ける。
パラオの海は、朝日に照らされて輝いていた。
その青は、夜明けのドレスよりもずっと自由だった。
麗華は静かに目を細める。
もう誰にも、人生を奪わせない。
誰かの都合で、自分を後回しになどしない。
これからは、自分で選ぶ。
自分で歩く。
自分で幸せになる。
海の向こうには、まだ見たことのない世界が広がっていた。
麗華はその景色を見つめながら、穏やかに微笑んだ。




